いつしか週一回の教室が楽しみになっていた。最近は教室の後、先生が奉仕活動をする教会の卓球台で一戦交え、それから食事に行くようになっている。卓球は私のほうが上手だったのに、先日初めて負けた。ずいぶんと上達しているではないか。聞けば「YouTubeで研究しました」とおっしゃる。1年かけて、中国の強い卓球選手のチャンネルで学んだというのだ。そうまでして私に勝ちたかったのかと思うと、なんともかわいらしい。

ある日、意を決して先生に告白した。もちろん、冗談めかして。

「考えられない。不義です。それは罪です」

一瞬にして振られてしまった。

 

振られてからも、想う気持ちは強くなって

不義。先生には年の離れた妻がいるのだからそのとおりだ。頭では理解している。それでも淡い期待を抱かずにはいられない。いつの日にか、先生の心に、私の気持ちが入り込み、愛してくれるのではないかと。

というのも、確かに振られたのだが、食事や卓球やショーを見に行く時には相変わらず付き合ってくれている。そして会話はいつも弾むのである。そんな時、もしかして先生もプラトニックラブと思ってくれているのではないか、そんなふうに感じてしまう。そして告白してからのほうが、先生を想う気持ちは強くなっている。

駅で命拾いした瞬間を思い出してみる。あの日、直前には先生とイタリアンの夕食を共にした。帰路、見えないけれど、幸せなエネルギーがからだ中を駆け巡っていたのではないか。だからあの時、階段から落ちそうになっても、生きる力を発揮できたのではないか。
ああ、身も心も愛されたい。

しかし、先生とは無理なのかなとも思う。「それは罪です」と断定されたのだから。ならば、いっそ新しい人を探すべきなのか。今どきはインターネットで見つけるのだろうか。それとなく口に出したら「そんな危ないこと、やめたら」と、顔色も変えずに言う。そういうなら、手をつないだり、せめて指一本ぐらい触らせてくれてもいいのに。

いま、心は揺れに揺れ、迷いに迷っている。急がないと、後期高齢者の私には、もう後がない。

<電話口の筆者>

「『毎回、食事のお金を出させるなんて、その人はどういうつもりなのよ』と姉に言われたんですよ」と清水さん。「先生」は、教会の奉仕活動などから見ても、質素な暮らしぶりが窺えるのだとか。

「私が出すのは構わないのです。あと数年、80歳ぐらいまではしたいことをしようと決めたのですから。叶うなら、先生と二人きりで旅行に行きたいですね」。

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