健康やお金は、人生を楽しむ手段

パンづくりをスタッフに教えはじめたころ、衝撃を受けたことがありました。小麦粉500gあたりのレシピを小麦粉350gに変えたら、塩や水などの分量がどうなるか、というごく簡単な計算が、彼らにはできなかったのです。私がいないときでも、新しいスタッフが入っても計算できるように、みんなで電卓をたたきながら、算数の勉強をしました。

40年前の内戦とポル・ポト政権による知識層の虐殺によって、カンボジアの教育は大きなダメージを受けました。学校の先生となるべき世代は教育を受けておらず、すっぽり抜けたまま。職業支援をするといっても、彼らの知識レベルや置かれた状況を理解していなければ、本当の手助けにはなりません。それに気づけたのも、パン工房をつくったからです。

スタッフの誕生日に。彼らにとって人生初のステーキ(写真提供=小谷さん)

同時に、カンボジア人から学ぶことはたくさんあります。独裁政権下での諦めの境地や貧しさもあるのでしょうが、今日を精一杯に生きる、という姿勢は考えさせられます。それに、国の社会保障制度がないので共助の精神が根づき、よい意味でおせっかいなのです。

日本人はこれだけ恵まれた生活をしているのに、なぜみんな将来への不安を抱えているのでしょう。「長生きがしたい」と食べたいものを我慢したり、「老後のために」と貯蓄にばかり励んだり。健康やお金は人生を楽しむ手段であって、目的ではないと思うんです。

夫は42歳で亡くなるまでの約20年、厚生年金保険料を支払っていました。しかし子どもがおらず、一定の収入のあった私には遺族年金の受給資格はなし。彼が支払った千数百万円はすべて日本年金機構に寄付したも同然でした。なのに、誰からも感謝されません。私の死後に相続税などを国に支払うくらいなら、生きている間に、自分で働いて得たお金を、自分の考えで、誰かのために有益に使いたい。私はそう思います。

日本では死生学者をしていますが、「社会の一員としてどう生きるか」という実践の場がカンボジアにもできました。カンボジアとの思い通りにいかないやりとりさえも、面白いと感じる今日このごろです。