「友達もみんな逝っちゃいましたから。やっぱりそれは寂しいですね」と五木寛之さん(左)に語る佐藤愛子さん(撮影:大河内禎)
97歳の佐藤愛子さんと、88歳の五木寛之さん。長らく病院に行かなかったというのが不思議な共通点。対談前篇では、思い出のなかの知人たちや時代について語り合いました。話題は健康や、自身についての新たな発見に広がっていきます(構成=篠藤ゆり 撮影=大河内禎)

<前編よりつづく

「気がつけば乗客1人」に

五木 僕らは、と言っては失礼ですが、そろそろ「死」を意識する年齢です。昔、レコード会社にいた時代、会社が苦しい時にヒット曲が出て、みんなほっとしたことがありましてね。それが「終着駅は始発駅」という歌なんです。

佐藤 面白い題ですね。

五木 確かに電車の終着駅は、始発駅でもある。僕はいまだに、これは名文句だと思っています。佐藤さんがご著書の題名に「終着駅」という言葉を使われたけど、これでお役御免になるわけではない。浄土だか天国だか知りませんが、そこに向けてまた走りましょう、ということでしょうか。

佐藤 いやいや、私はもう走らなくていいですよ。十分に生きたという満足感みたいなものはありますから。もういっぺん生きたいとは思わない。ここにいて座っているのも、あの世で座っているのも大差ありません。

五木 そうですか。人によっては「これをやり遂げたかった」とか「あれができなかった」と後悔が多いかもしれないけれど、僕は「天の摂理でこうなったんだから、オレは知らないよ」という立場です。しかし88歳にして、まだ見えていないものがいろいろあるとは思いますけど。

佐藤 私はもう何をしたいとも、どうなればいいとも思わない。欲望ってものがもうないんですよ。自分に与えられた人生だけは、十分に生き抜いた。ただそう思うだけで、後悔もなければ、懐かしくもない。思い残すことは何もないけれど、死ぬ時に悲しいことがあるとしたら、親しい人間とお別れすることですね。それだけです。

五木 親しい人も少しずつ減って、なんだか最近は、「気がつけば、乗客1人」みたいな感じです。

佐藤 本当にそうですね。私みたいに97になると、友達もみんな逝っちゃいましたから。やっぱりそれは寂しいですね。