「無いものにされる痛みに想像力を」をモットーに、ライターとして活動をしているヒオカさん(写真提供◎ヒオカさん)
貧困家庭に生まれ、いじめや不登校を経験しながらも奨学金で高校、大学に進学、上京して書くという仕事についたヒオカさん。現在もアルバイトを続けながら、「無いものにされる痛みに想像力を」をモットーにライターとして活動をしている。第5回は「不登校だった私が表現に目覚めた話」です。

いじめをきっかけに引きこもりに

中学に入学した私は、いじめに遭い、不登校になった。まだ1年生の1学期のことだった。

きっかけはよく覚えていないが、たまたま、クラス、いや学年で1番派手なグループに入った。しかし、遊びの付き合いが悪いなどの理由で、リーダー格の子に嫌われ、途端にクラス全員に無視されるようになった。

10代の多感な時期の心は、表面がすべて粘膜のようだ。どんな些細な刺激にも敏感に反応してしまう。廊下を歩くとき、休み時間、給食の時間。すれ違う時に吐き捨てられる侮蔑的な言葉、耳元に張り付くクスクスという笑い声。哀れみや好奇の視線。そのすべてが私の心を静かに壊していった。

ご飯が食べられなくなり、学校に行こうとすると腹痛に襲われた。

その後いじめはエスカレートし、週に1度の欠席が、2日、3日と増え、結局私は学校に行かなくなった。

その後、家での引きこもり生活、支援センター(公立のフリースクールのようなところ)を経て、相談室登校になる。3年間、教室へはほとんど入れなかった。

(写真提供◎写真AC)

人目を避け続けた3年間だった。
とにかく、存在をかき消してしまいたい、という気持ちに常に支配されていた。死にたい、より消えたい、が本心だった。

相談室登校を始めてから、たまに廊下などで他の生徒と鉢合わせてしまう。
支援センターを卒業し始めて登校した日は、ジロジロ見られ、「なんであいついるの?」という言葉があちこちから聞こえてきた。

それからというもの、遅く登校し、トイレや移動も廊下に人がいないか確認してから行った。常に息を潜め、私の姿が他の人の視界に入らないよう必死だった。

きっとこのまま、私の中学生生活は終わるんだろう。そう思っていた。

2度とは戻ってこないこの期間を、楽しむ、とか、思い出を残そう、とか、そんな望みや期待は持てなかった。

とにかく、今をやり過ごす。苦痛しかないこの瞬間が、早く過ぎ去ればいいのに。

3年生の夏頃だったろうか。
全員提出必須の作文の課題が出た。何を書こうかと思ったとき、どうせ先生ぐらいしか読まないのだから、不登校になったことを書こうと思った。

学校にいけなくなったこと。フリースクールで出会った人たちに救われこと。
相談室登校を始め、今は給食を持ってきてくれる友達に支えられていること。

誰にも話したことのない《自分の感じたこと、自分から見える景色》をそこにつらつら書いた。どうせ誰の目にも触れない。そう割り切ったからこそ、正直な思いを書けたのだと思う。