1972年、澤地さんの出版記念会にて、スピーチをする瀬戸内さん(写真提供◎澤地さん)
2021年11月9日、作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんが亡くなりました。享年99。その寂聴さんのお別れの会が、2022年7月26日に東京・帝国ホテルで開催されました。そこで今回、本誌編集者として瀬戸内寂聴さんと長きにわたる交流を続けた澤地久枝さんの『婦人公論』2021年12月28日・1月4日合併特大号の記事を、再配信いたします。

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瀬戸内寂聴さんは35歳のとき瀬戸内晴美の名で作家デビュー、女性の生き方を描いた作品を次々と発表し人気作家となります。51歳で得度(とくど)、名を寂聴と改めたのちは、作品や法話を通して、人々を《ことば》で導いてきました。本誌編集者としての原稿依頼に始まり、瀬戸内寂聴さんと長きにわたる交流を続けた澤地久枝さん。瀬戸内さんの愛した男性たち、そして書く動機とは

会うたびにうつくしくなった

出版記念の会のアルバムがある。よく似合う着物姿の瀬戸内さんの姿もある。翌1973年の出家を予想させるかげりはない。明るい。

瀬戸内さんは明るくて優雅だが、がむしゃらの人、われから選んだ人生に後悔のない人だった。知り合って60年、会うたびにうつくしくなった。

妻子ある作家・小田仁二郎氏との同棲の清算を描いた作品『夏の終り』は、彼女の大きな転機となった。この時期、わたしは編集者として「『妻の座なき妻』との訣別」を書いてもらっている(『婦人公論』62年3月号)。いわば「手記」である。

雑誌ができた一日、彼女が男と別れて自立した練馬の新居へ行った。建売り住宅なのか、周囲に家はなく、車でなければ行けない辺鄙(へんぴ) な場所にそれはあった。家の柱が見るからに細く節(ふし)が露骨に出ている。大工の娘であるわたしは一目で安普請と思う。しかし、「瀬戸内さんはこれで一国一城のあるじですね」とわたしは言った。

『夏の終り』には、別れた恋人がじつに几帳面に女性の身辺を気づかい、出さきで生理になったときなど、バッグに柔らかい紙がたっぷり入れられていた話も出てくる。その頃、瀬戸内さんはわたしに「やっぱり仁がいいわ」と無邪気に笑ったことがある。

今度の諸氏の追悼の記事で『夏の終り』の新しい若い恋人は、北京時代の夫の教え子と知った。夫と子を棄て、寒空の下、コートもぬいでゆけと夫に言われた家出のとき、恋人とはなにもなかったと瀬戸内さんは書いている。この男性が、のちに『夏の終り』に若い愛人として登場するのだ。

寂聴さんが生涯に愛したのは、3人の男性ではないかと思う。彼女の筆はのびやかで、仏教をおさめるものとして、物語の裏にひそむものを書かずにはいなかった。『源氏物語』の現代語訳に6年かけたこと。登場する女たちの7割がのちに出家するという寂聴さんならではの指摘。仏教に帰依しなければ『源氏物語』は書けなかったという寂聴さんの言葉に、たくまぬ自恃(じじ)を感じる。