ついにすべてに答えを得た

2011年の東日本大震災のあと、原発政策の曖昧な政治に対して、経済産業省前にハンストテントが張られた。マスメディアは、このハンストを無視した。どこにもなにも出ない。わたしは思案して、寂聴さんに手紙を書いた。「ハンストに加わりませんか」と。

すでに東北の被災地を歩いていた寂聴さんは、すぐ参加をきめられ、わたしたちは人びとのなかに座った。ハンストであるから、なにも食べない。水だけが豊富に差し入れられた。

寂聴さんの凄さは、翌々日、岩手県浄法寺町の天台寺へ説法に行かれたことだ。何千人もの人が、寂聴さんを待っていた。1年に4回行うという天台寺行きだが、この行動力は、寂聴さんの人生が秘めていた執念のようでもある。

田村俊子、管野スガ、岡本かの子、金子文子。瀬戸内さんの書かれた評伝は、わたしたちがみならうべき領域をひらいた。なかでも、金子文子の墓を韓国にみつけて、土地のしきたりにしたがって詣でた事実を忘れない。貧しくて学歴もない無期懲役の女性である。恋人の朴烈(ぼくれつ)は日本の敗戦後、生きてふるさとへ帰ったというが、その後は不明である。

電話もせずに寂庵を訪ねたことがある。同業のドウス昌代さんと一緒だった。寂庵の門にはいくつもの呼び鈴があり、わたしは寂聴さんへつながるそれを押した。「はあい」と返事があった。

この日、寂聴さんがおいて出た娘とその孫たちが来て、遊んで帰ったところだった。寂聴さんは疲れていて、しかし興奮さめやらずの感じ。この子たちについては書かないようにと娘さんからいわれたという。それを告げる寂聴さんの嬉しそうな表情を忘れられない。

波瀾の多い99年の人生だが、寂聴さんはついにすべてに答えを得たとわたしは感じる。最後まで「書きたい」と思っておられたのは当然のこと。こんな人生、ほかにあるだろうか。

寂聴さん、寂しいです。さようならと小さな声でいいます。