ただそれを、舞台を作る側の人たちにどう言えばいいのかというのはいつも難しい。あなたが好きだからあなたがいてくれて生で見られて嬉しい、というのはそれはそうなんだけどでも全く違ってもいて、私は舞台を見にきているし、ただその人がそこに立っていたら見に来るかって言ったらそうではない。「いる」ということが、作品に昇華されることに私は舞台の美しさを感じるし、それができる人たちを心から尊敬している。でも、その魅力を語ろうとすると「いた」ということの感激が大きく大きく言葉を占める。

 あの日、2階席に届いた目線は本当に、「優しさをもらえた」とかじゃない、もっとその人の一瞬になれたと強く実感するものだった。オペラのレンズに反射する光以外きっとあの人にはなにも見えていなかっただろう。でも、オペラの光の向こう側にいる「人」に向けてその人は頭を下げていた。光の位置を絶対に忘れなくて、幕が降りるまでずっとそこに目線を送ってくれたあの人は、めちゃくちゃそこにいたし、私もここにいた。いた。「いたこと」が、あの時間をものすごくダイナミックにしていた。同じ作品を私は何度か見ていて、その日の席位置が多分一番見づらい席だったはずなのに、公演のことを思い出そうとするといつもそこから見た景色が浮かんでくる、そうなってしまった。「目が合って嬉しかったです」なのだけど、でもそれはその舞台への賞賛でもあって、そのことを絶対に丸ごと伝えたいって思った。それでこの記事を書いている。目が合って嬉しかったのは本当で、でもそれは積み重ねられた舞台よりもそういう気遣いが嬉しい、とかそんな話ではなくて、好きな舞台作品が鮮烈に自分の中に突き刺さって抜けなくて、そのトリガーとなったあの目線に「嬉しかった」って言っている。もちろん好きだというのもあるけれど、ファンだからこそこの鮮烈さがわかるのだというのもあるけれど。舞台に立つ人たちへの「好き」ってその気持ち自体が、ずっと彼女たちの作る舞台や役に根付いているから。私の気持ちをなにもかも吸収して、今しかない美しい「観劇体験」をくれるあの人たちを尊敬している。すばらしい作品をありがとう、が、すべての好意を込めた言葉だ。