「今日は写真を撮るから、孫娘と長男と相談してきれいな色のセーターを選びました。髪は美容師をしている次男がしてくれて」(撮影=福森クニヒロ)

母のもと昔ながらの修業で結髪を学ぶ

「店の物干し台でおままごとをしたり、はたきを髪の毛に見立てて結って遊んでいました」と言うから、やはり美容師になるのは自然のなりゆきだったと言える。髪を結う以外の知識や技術も重要で、さまざまなお稽古事に通った。

「お茶やお花、お針(和裁)、日本画など、どれもそう好きではなかったけれど(笑)、すべて仕事に生きていると思います。襖の開け方から入り方、お辞儀のし方など礼儀作法も厳しく教え込まれました」

やがて戦争が始まり、登美子さんも工場で鉄砲作りに従事。区役所に勤めるなどした後、美容師の見習いとして働くようになる。優しい母は一転して厳しい師匠になった。

「母は『見て覚えや』とばかりに何も教えてくれませんでした。櫛やピンを渡す手順を間違えようものなら、厳しく叱られて(笑)。母が私を褒めたのは、私が50代になってから。ある婚礼で花嫁さんの髪を結ったのを見て、『上手に結えてる』と一言。母が亡くなる前の年のことです」

昔ながらの修業の中で、登美子さんは結髪を学んでいった。

後半に続く

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