「万事は掛川城のごとくせよ」

復元に際しては、残された図面によっていますが、実は高知城の天守が参考にされたようです。

高知城の天守閣。冒頭に掲載した掛川城の天守閣と見比べてみると、よく似ていることが分かります(写真提供:Photo AC)

 

「なぜ高知城が?」と思われた読者も方もいらっしゃると思いますが、先述した一豊が関ヶ原の戦いの後に土佐一国の太守に栄転し、そこで高知城を築いた。

その際に「万事は掛川城のごとくせよ」と命令していたらしい。

ですので、今度は現存する(といっても、江戸時代に建て直されてはいるのですが)高知城の天守を模倣した、というわけです。

この3月末まで、掛川城の天守閣は修復工事中とのことですが、終わったらまた美しい姿を見せてくれるでしょう。

戦国大名としての今川氏の最後を見届けた名城・掛川城。一度、足を運ばれてはいかがでしょうか。

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「将軍」の日本史』(著:本郷和人/中公新書ラクレ)

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