でも実はそのとき、転んだなんてもんじゃなかった。あたしは地球の重力と軽からぬ自分の体重にひきずられ、この重さに対してあたしはまったく無防備で、抗うことすらできずに路上に倒れ、手や腕や腿や頰が、舗道に触れた。つめたかった。その夜シカゴは零下だった。その瞬間考えた──ああ、そうか、道路とは踏んで歩いて使うものだが、今にかぎってはこうして寄り添って使うものなんだな、と。手や腕や腿や頰だけじゃなく、内臓が裏返されて路上にぺったりと貼りついているような気もした。それなら見たことがある、昔々東京の路上で、車にひかれていた犬か猫。そのときあたしは、この歌のこの句を思い出したのである。

──万(よろず)の仏に疎まれて。

それはこう続く。

──後生わが身をいかにせん。

万と数が書いてあるけど、結局は「すべての」ということだ。あたしのことなんか愛してくれる仏さまはどこにもいない。あたしの後生は(死んだら)いったいどうなるか。地獄に落ちていくしかない。

だって、なぜ転んだのかわからない。つまずくような段差はなかった。まるで、仏といいますか、超地球的な、宇宙的なチカラに持ち上げられ、憎しみをこめて、力いっぱい叩きつけられたような感じだった。