2020年にデビュー20周年を迎える山内惠介さん(撮影:本社写真部)
演歌界の《永遠の貴公子》山内惠介さんが7月5日の『徹子の部屋』に登場。5月31日に40歳の誕生日を迎えた心境や、これからの意気込みを語ります。今回は自身の生い立ちやブレイクまでの苦労を語った『婦人公論』2019年3月26日号の記事を再配信します。

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2022年『NHK紅白歌合戦』に8年連続の出場を果たした演歌歌手の山内惠介さん。その上品で爽やかな容姿から「貴公子」と呼ばれ、力強い歌唱は多くのファンを魅了している。福岡から上京して高校3年でデビューしたものの、鳴かず飛ばずの時期も長かったという。ブレイクまでの道のりは──(構成=大西展子 撮影=本社写真部)

「お母さん、頑張るけんね」

僕が生まれた福岡県糸島市(旧前原町)は農業が盛んで、家のまわりは田園風景が広がる、のどかなところです。ヤギもいれば、牛の鳴き声も聞こえ、もちろん独特な匂いもします。母親は「田舎の香水」なんて言ってましたけど、僕にはそれも懐かしいですね。

僕は3人兄弟の末っ子で、2人の兄とは12歳と9歳年が離れています。それもあって、母親にはこれでもか、というぐらいの愛情を注いでもらいました。ただ、本当は女の子がほしかったみたいで、名前まで決めていた、と。今年(2019年)の正月、親と旅行をした時に初めて聞きました(笑)。ちなみに僕の芸名の「惠介」は、本名の山内恵介を一文字だけ変えています。デビューの時に師匠で作曲家の水森英夫先生が考えてくれました。

母は、僕の同級生の親たちよりも年齢が少し上。だから授業参観の日は母親が少しでも若々しく見えるようにと、母が着ていく洋服を朝、僕が選んでいました。母も僕の思いに応えて、必ずその服を着てくれた。とにかく僕は甘えっ子でした。(笑)

母は曲がったことが大嫌いで、何にでも一所懸命。料理上手で、揚げ物から煮物まで全部おいしかったけれど、当時はそれをありがたいとも感じず、当たり前だと思っていました。父親は新聞社の営業マンで、いつも真っ黒に日焼けしていましたね。九州男児ですからお酒は強いけれど、結局は母親の掌の上で転がされている、という感じです。

母方の親戚はカラオケが大好きで、みんなでよくお店に行き、歌っていました。確か僕が5、6歳の頃、母親の好きだった美空ひばりさんの「みだれ髪」を初めてカラオケで歌ったんです。覚えたままに「な~みだを~しぼる~」って部分を裏声にして歌ったら、みんなが「すごい!」と褒めて喜んでくれた。

祖父母も母も親戚も、僕が演歌を歌うと、時には涙をボロボロ流して感動してくれるのです。保育園でも、砂遊びをしながら演歌を口ずさんでいるだけで、先生たちからものすごくかわいがられたりして(笑)。そんな経験を重ねるうちに、幼いながらに歌のもつ力を感じたのでしょうね。演歌歌手になりたいという思いが、次第に芽生えていきました。