その後1995年に父が亡くなり、ほぼ同じ頃に今度は母が大腿骨を骨折して介護が必要に。08年に亡くなるまで、要求の激しい母には振り回された。その顛末は、『母の遺産新聞小説』につぶさに記されている。

――私たちは強烈すぎる母にずいぶん傷つけられました。私の傷は比較的浅かったけど、弱い姉はズタズタになっちゃった。

あるとき、何かの弾みで姉が突然泣き出し、「だから、私はあなたみたいに愛されないのよ!」と口にしたことがあります。幼い頃から母の愛情と関心を一身に集めてきたのに、姉は、自分は愛されていないというコンプレックスをずっと抱えていた。

姉は私に愛情を注いでくれる一方で、私の愛情を猛烈に求め、いつも一緒にいることを望みました。私はそれが負担で、必死に距離をとるようにしていた。姉の住む場所を決めるときに同じ沿線を避けたのも、私が自宅にピアノを絶対に置かないのも、姉がしょっちゅう泊まりに来るのを恐れてのことです。「忙しい、忙しい」とわざと口にして会う頻度を減らし、電話も基本的には日に一度にしました。

「電話は夜11時までにしてね」と頼んでいたので、外出していても息せき切って時間までに戻ってくるんです。病気のせいで歩くのが困難になってもそう。哀れでした。その頃からは私が外国にいてもほぼ毎晩スカイプで話すようになりました。

姉は目が悪かったので、すべての書類に私が目を通す必要があったし、晩年は日常的なケアも欠かせなくなって。姉の世話がなかったら、あと10冊くらい本が書けたのでは、と思うほど膨大な時間をつぎ込んだものです。

昨年姉を看取り、そんな日々は終わりを告げました。作家としての残り時間が限られるなか、ようやく自由になれてホッとした面はもちろんあります。それなのに、今強く感じるのは、解放感というよりは欠落感なのです。

姉は私にとって反面教師ではありましたけれど、私という人間を無批判に丸ごと受け入れてくれた人でもありました。私にはたいへん甘く、私の書いた本はどれも感心して読んでくれて、「妹が良いものを書くのは当たり前」と思っているようでした。そんな姉に甘えさせてもらったのは私のほうだった。

姉の遺品をお弟子さんに分けたときのことです。ピアノの上にそれなりに値の張るものをいろいろ並べたのに、お弟子さんがまず向かったのは楽譜が並んでいる棚。「香苗先生の指使いが書いてある」と目を輝かせて持っていきました。

「私はあなたみたいに愛されない」と言っていた姉は、こんなふうに慕われ、大切にされていた。私が知らない面はもっとほかにもあったのかもしれません。もうそれを知ることができない、その寂しさに今も包まれています。