「これからの時代は人を大事にしなければならない」
「そんななか、目の前をなにか黒い丸いものがいくつか動いているのが見えた。『ああ、生存者だ』と思ったら、ふと我に返りました。脱出したときは大勢泳いでいたのに、爆発に巻き込まれたのか、多くは残っていませんでした。せっかく生き残った者を死なせてはいけない。私は思わず、『准士官以上姓名申告、近くにいる下士官兵を握って待機、漂流の処置をなせ』と叫びました」
清水は、2時間あまりの漂流ののち、駆逐艦「冬月」に救助され、翌朝、佐世保に帰還した。有賀艦長は艦と運命を共にし、生存者中最先任者(序列がもっとも上)である能村副長は頭部に重傷を負って入院しているので、清水が代わって「大和」特攻の戦闘詳報を書くことになった。現在、防衛省に保管されている「軍艦大和戦闘詳報」は、清水の手によるものである。いまでは名高い戦訓所見、
〈「思ヒ付キ」作戦ハ精鋭部隊(艦船)ヲモミスミス徒死セシメルニ過ギズ〉
……という一節を、清水は第二艦隊司令長官・伊藤整一(せいいち)中将、有賀艦長をはじめ、「大和」と運命をともにした2740名への万感の思いを込めて書いた。
ほどなく、終戦。清水は、最後に残された数隻の駆逐艦を寄せ集めて編成された第三十一戦隊の砲術参謀として駆逐艦「花月」に乗艦、再度の出撃に備えているところだった。「悲しいことに、もはや動ける艦がこれら数隻の駆逐艦しかなかったんですよ。瀬戸内海の柳井(山口県)の沖に停泊して、艦に網をかぶせて木の枝をつけ、マストには松の木を立てて敵機から見えないように偽装していました。
対空射撃をすると居場所がバレるから、敵機が上空を飛んでも見送るだけです。8月15日、玉音放送を聞いたときは、まあこれでよかったと思いました。艦が沈むと人も沈む。『大和』をはじめ、艦と一緒に優秀な人が大勢死んでしまって、これからの時代は人を大事にしなければならないと思いました」
終戦後は7ヵ月間、呉に残って復員事業に従事したのち、帰郷。妻の実家のある愛知県で農場を開墾、精麦工場や倉庫業を営んだ。
清水は言う。「国家民族危急のとき、『大和』とともに、身命を賭(と)してこれにあたった乗組員たちがいたことを、後世の日本人が少しでも記憶にとどめてくれたら、彼らも浮かばれるんじゃないでしょうか。
沖縄に米軍が上陸し、なんとかこれに一矢を報いなければと、自己犠牲をいとわなかった尊い気魄(きはく)は、いわゆる戦争責任論とは別のもの。あの敗戦の廃墟から立ち直り、奇跡的な復興を遂げたのは、戦いに斃れた人たちの精神が、日本人の心のどこかに残っていたからだと思っています。死んだ連中の分まで頑張らなきゃと、みんなが思っていましたからね」
戦艦「大和」は、東経128度04分、北緯30度43分、水深345メートルの地点で、海底の墓標となって、幾千の骸とともに、いまも静かに眠っている。そしていつまでも、日本人の心のなかに、複雑な感情とともに生き続けることだろう。
※本稿は、『太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人々は何を語ったか』(講談社ビーシー)の一部を再編集したものです。
『太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人々は何を語ったか』(著:神立尚紀/講談社ビーシー)
「戦争は壮大なゲームだと思わないかね」――終戦の直前、そううそぶいた高級参謀の言葉に、歴戦の飛行隊長は思わず拳銃を握りしめて激怒した。
「私はね、前の晩寝るまで『引き返せ』の命令があると思っていました」ーー艦上攻撃機搭乗員だった大淵大尉が真珠湾攻撃を振り返って。
「『思ヒ付キ』作戦ハ精鋭部隊ヲモミスミス徒死セシメルニ過ギズ」ーー戦艦大和水上特攻の数少ない生存者・清水芳人少佐が、戦艦大和戦闘詳報に記した言葉。
「安全地帯にいる人の言うことは聞くな、が大東亜戦争の大教訓」――大西中将の副官だった門司親徳主計少佐の言葉。