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レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロなど、世界的にも有名な芸術家を数多く生んでいるイタリア。美術館も多く、素敵な街並みに一度は訪れてみたいという方も多いことでしょう。そのようななか、17歳でイタリア・トスカーナ州にあるフィレンツェに留学し、「極貧の画学生時代に食べたピッツァの味が、今でも忘れられない」と語るのは、漫画家・文筆家・画家として活躍するヤマザキマリさん。マリさんいわく「イタリア料理は基本的に庶民の食文化として育まれてきたもの」だそうで――。
私の貧乏メシ
今から25年ほど前に遡るが、フィレンツェで産んだ子供を連れて日本へ戻ってきた直後からしばらく、札幌のローカルテレビ局のワイド番組でイタリア料理のコーナーを担当していたことがある。
当時はまだ漫画だけで生計をたてていくのが難しく、幼い子供を育てることを踏まえると仕事をあれこれ選り好んでいる場合ではなかった。
学生時代のチリ紙交換に始まり、イタリアに渡ってからの道端での似顔絵描きに高級宝飾店の店員、そして貿易商の通訳から店の経営まで実に様々な職種を手掛けてきたおかげで、職業に対する私の意識は開かれている。どんな仕事でも何でも来い、という気構えでいた。がしかし、まさかテレビ番組で自分の料理コーナーを持つことになるとは想像もしていなかった。
私が日本に戻ってきた1990年代後半はすでにバブルも終わっていたが、イタリアで11年間世知辛い暮らしを続けてきた私の目に映る日本はそれほど景気の悪いようにも見えなかったし、人々は相変わらず日々の消費生活を謳歌しているように思えた。私にプライベートでイタリア語を習いに来ていた奥様たちは高級な外国車に乗っていらしたし、海外旅行にも足繁く出向いていた。
当時、私がイタリアで暮らしていたと知ると誰しも「あら、素敵、羨ましい!」という反応を示していたが、絵の勉強をする傍らで、一生分の貧乏と社会で味わうべき辛酸を体験させられた国という印象しか無かった私には、裕福な彼らの「素敵」や「羨ましい」が何を意味しているのかがさっぱりわからなかった。
この人たちは、イタリアのことがよく解っていないのかもしれない、と、街中にいくつもあったイタリアンの店先ではためくトリコロールの国旗を見ながら、毎日感慨深くなっていたものだった。