(構成:岡宗真由子 撮影:本社 奥西義和)
告知された夜、久しぶりにぐっすり眠れた
がんと告知された時は、「動揺」よりも「やっぱり私の順番が来たか」という感覚でした。父(故・梅宮辰夫)が36歳の時からがんを患って、81歳でこの世を去るまで何度もがんと闘う姿を側で見てきましたから。だからこそ、がんは私にとって身近な存在で、小学生の頃からちょっと膝が痛くなっただけで「私、骨肉腫かな?」とか疑うような子どもだったのです。(笑)
2024年の5月下旬、いつものように裸で鏡に全身を映したらおっぱいが右だけ縮んでいたので、驚いたのです。その日は「更年期の症状だろう」と気持ちを落ち着け、数日そのままにして過ごしていました。でも日に日に不安がおさえきれなくなり、アメリカにいた娘の百々果にLINEしたところ「ママ、すぐに病院に行って」と懇願され、受診することにしました。
父の梅宮辰夫さんも通い、自身も人間ドックを受けていた国立国際医療研究センターに予約を入れたアンナさん。マンモグラフィと血液検査を受けると、結果は2週間後の6月13日とのこと。その後仕事でドイツに向かうが、胸の痛みのために急遽帰国。再診の日までまだ1週間あったことから、待ちきれずに乳房専用のクリニックを受診したところ、がんではなく「嚢胞」と診断される。しかしその結果には納得できず、頭の片隅で「がんかも」と思い始めていた。
6月13日、母とマネージャーと一緒に病院へ行きました。診察室で医師に「えーと、がんがあります」とあまりにカジュアルに告知されて、呆気にとられました。がんになることで、見た目にそんな急激な変化があるのか?と疑問に思いたずねたところ、私の場合は「浸潤性小葉がん」という比較的希少ながんで、そういった変化が見られたそうです。
がんなの?がんじゃないの?とわからない間は不安でいっぱいだったのですが、告知を受けた日は不思議とぐっすり眠ることができました。はっきりわかった安心感もあったのかもしれませんが、「これでやっと休める。芸能界から離れられる」と思いました。潜在意識の中では、死への恐怖よりも、今の生活を改め、新たに始める人生への期待のほうが優ったのでしょう。
この10年間、私はいつ、どうやってこの世界をやめればいいのかと考えていました。ネット上で「この人、今何やってるの?」みたいな心無い書き込みを目にすることもあったし、自分でも今の人生をとても空虚に感じていたんです。
芸能界というところは、いつも“騙し合い”で、虚栄を張り続けないといけない。そして、正直なことや率直な意見を言っただけで叩かれる。私は心底、疲れていました。
だからこそ、迷うことなくがんの公表を決めたのですが、周囲は猛反対でした。でもこのSNSの時代に、何かを隠すことは不可能。病院通いや身体の変化について、理由を隠したまま生きていくなんて私には考えられなかった。
大手事務所にいた私のマネージャーは、病気がわかったら仕事が逃げると言って、どうしても公表に同意してくれませんでした。私を守る気持ちで言ってくれていたのは理解できるのですが、最後は彼とも袂を分かつことを決め、連載を続けてきたブログ『OTONA SALONE』を通じてお伝えしました。
実は、当初担当医の方にまで「世の中の人に、がんのステージまで明かす必要はないのでは」と心配されて。でも私は、自分のことを自分の言葉で全て正直に話したかったのです。