「越冬虫の件です」
一瞬、気配が張り詰めた。おゑんも含めた三人の気配だ。庭からの風に乗って、小さな白い蝶二匹が入ってきた。夫婦なのか恋の最中(さなか)なのか、二匹は縺れ合いながら天井近くを舞い飛んでいる。
「越冬虫が絡んでいる。そういう事件が起こったと?」
「起こりつつある。その兆しを感じていると申し上げたのですよ、惣名主」
「治兵衛が殺されたのも兆しの一つですか」
「始まりの合図かと思います」
平左衛門は小さく呻いた。「越冬虫か」。呻きと共に言葉も漏れる。
「先生、越冬虫とは、それほどの代物なのですか。正直、わたしどもには測りかねるところがございます。こんなにも長く尾を引いて、吉原に絡んでくるほどのものだったとは、何とも驚きでしかないのです」
「あれは薬ですからね。惣名主といえども測りかねるのは当然ですよ」
「薬か……」
おゑんは居住まいを正し、軽く息を吸い、吐いた。
「ええ薬です。あたしもまだ、ほとんど何もわかっちゃあいませんが。ただ、越冬虫が人の痛みを和らげる良薬にも、僅かの量で人を死に至らしめる毒薬にもなると、そのあたりまでは掴んでいます。と、偉そうに言っても、ほとんどが末音の手柄ですけれどね。そして、越冬虫をどう使えば、どう処方すれば良薬になるのか、どうすると毒薬になるのか、そこもまだ、ほとんど解き明かせてはおりません。でもね、解き明かせていないとは、つまり、どれほどの効能があるか、どれほどの力を秘めているか、そこもわかっていないということです。これは、なかなかに心惹かれるものでしょう」
平左衛門が腕組みをして、心持ち首を傾げた。
「惣名主、あたしは、この前、患者に越冬虫を混ぜ込んだ薬を使ってみました」
平左衛門の面で、今日初めてはっきりと情が動いた。もっとも、それがどんな情なのか、言い表せない。戸惑いのようであり、驚きのようであり、面白がっているようでもあった。それらが全て混ざり合っているのかもしれない。ただ一つ、好奇の情だけは、はっきりと読み取れた。
「胃の腑か腸に病を抱えていた患者でした。それが悪化して、酷い痛みと苦しみを訴えていたのです。 血も相当の量、吐きました。あたしには手の施しようがない有り様でしたよ。ええ、情けないけれど、ほとんど何もできなかった。いえ。それは少し自分に甘過ぎますね。その患者は腹の子が流れたばかりでした。あたしはそちらにばかり気を取られ、他の臓腑にまで目配するゆとりがなかった。その挙句のお手上げですからね。ともかく、あたしには患者の命を救うことは無理でした。でも、患者の苦痛を少しでも取り除くことならできるのではないかと、考えました。考えて、越冬虫を調合した薬を使ったのです」
甲三郎が身じろぎした。
「それで、どうなりました」
平左衛門の口調は熱を帯びても冷えてもいなかった。ただ好奇の情は消えていない。
「患者は亡くなりました。亡くなる前、苦痛はほとんど感じていなかったようです。越冬虫には激しい痛みを、ほぼ消し去る力があるようなのです。ただしそれは、命と引き換えにしなければ手に入らない安らぎなのかもしれません。惣名主、甲三郎さん、越冬虫とはそういう薬なのです……。薬と言い切れるかどうか迷うところではありますけれどね。そして、そんな未知の薬なら医者は惹かれるものです。治療に使うか、薬殺に使うかはまた別の話になりますが」
「治療にも薬殺にも使えるわけですな」
「ええ……。治療に使えるようにするためには、まだまだですけれど」
「“役者の治兵衛”も言ってやしたね。医者絡みだって」
甲三郎が遠慮がちに口を挟んできた。
「なるほど。越冬虫、医者、そして米沢町。この三点を結び付ければ……」
腕を解き、平左衛門は宙に三点を描く。
越冬虫、医者、米沢町。
「結び付ければ何が現れますかな」
「あたしの過去、でしょうか」
今度は、平左衛門が指を握り込んだ。握り込んだまま、膝に下ろす。
「先生はそれを話すために、お出でになったのですか」
「甲三郎さんをお借りするためですよ」
そのためには、全てを明かすしかあるまい。
「そうですか。では、わたしの願いが一つ、叶うというわけだ。赤飯を隣近所に配って回りたいほど、めでたいな」
平左衛門が、珍しく冗談を口にした。
おゑんは薄く笑んでみせる。
「残念ながら惣名主を喜ばせられるほど、めでたくも、楽しくもない話ですよ。お耳汚しにしかならないかもしれません」
「いや、先生に纏わる話が清々と美しいだけだとは、思うてもおりませんよ。そして、暗く歪んでいるだけだとも思うておりません。そんな薄っぺらなものではありますまい」
「さて、どうでしょうかねえ」
気配を感じ、おゑんは僅かに顔を動かした。甲三郎と視線が絡む。それは一瞬で、甲三郎はすぐに目を伏せた。おゑんも横を向く。
「あたしは、江戸よりずっと北の小さな国で生まれました。冬になると海鳴りばかりが響いているような、そんな場所です。祖父はその国の海辺に流れ着いた異国の者でした。その国がどこなのか、わかりませんが……なんてことは、惣名主はとっくにご存じですね」
おゑんが吉原に出入りするようになったとき、おゑんの身辺については平左衛門なりに調べ上げているはずだ。そうでなければ、吉原に入れるわけがないし、花魁安芸を診させるはずもない。
平左衛門からは一言も返ってこなかった。返事を望んだわけではないので、髪一筋ほども気にはならない。
「その国から、あたしは母と末音に連れられて江戸に出てきました。国を捨てた理由については今回の件とは何の絡みもござんせん。なので、端折(はしょ)らせていただきますよ」
やはり返事はない。
石像の如く動かない男二人を見据え、おゑんは静かに息を吐いた。
(この章、続く)












