扉が鳴った。

 柔らかく一度。少し間を空けて、控えめにもう一度。

 そのためらいが混ざるノックの仕方だけで、廊下に立っているのが現役の学生ではないとわかった。教授になって十七年。教員生活通算ではもう三十年以上、学生たちが立てるノックの音を聞き続けてきたのだ。加々見吉晴(かがみよしはる)は昼食のサンドイッチを頬ばる手をとめ、「どうぞ」と声をかけた。

「失礼します」

 扉を開け、若い女性がそっと顔を出した。若いといっても吉晴が普段指導をしている学生たちに比べればずっと顔つきがしっかりしていて、ひと目で社会人だとわかる。清潔感のあるまとめ髪に控えめな化粧、ベージュのパンツスーツと、かなり折り目正しい格好をしている。

 一瞬どこか取引先との打ち合わせを忘れていたかとも思ったが、吉晴は女性の顔に見覚えがあった。しかしすぐに名前が出てこない。目が合うなり、女性は照れた様子で眉尻を下げ「加々見せんせー」と小さな声で言っててのひらを揺らした。その頼りない声の調子をきっかけに、一つの名前が像を結んだ。

「あ、三島(みしま)じゃないか。元気にしてた?」

 二年前に卒業した元ゼミ生の三島鈴(すず)だ。卒論のテーマは……「自治体主導の小中学生向け体験活動支援プロジェクトが地域社会へ及ぼす影響」だった。論旨が拡散気味で、まとめも弱かったけれど、市の担当者や体験活動の現場を取材した意欲的な論文だった記憶がある。卒業後はたしか大手学習塾の社員になったはずだ。

 三島は「いやあちょっと……」なんて言いながら研究室に入ってくる。吉晴は半分残ったツナサンドを包装袋の上に置き、コーヒーをひとくち飲んで入り口付近の床を指さした。

「三島ごめん、ドアにストッパー挟んでおいて」

「はーい」

 重そうな仕事鞄を抱え直し、三島は黒い樹脂製のドアストッパーを扉と床の隙間に押し込んだ。横顔が少し暗い。笑っているような泣いているような、曖昧で濁った顔をしている。

 これは二十分はかかりそうだな、と吉晴はデスクの置き時計をちらりと覗いた。