「牛若」松本楓湖筆、明治時代19世紀、絹本着色(一部)。出典:東京国立博物館/ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-307?locale=ja
英雄は勇ましく猛々しい……ってホンマ? 日本の英雄は、しばしば伝説のなかに美少年として描かれる。ヤマトタケルや牛若丸、女装姿で敵を翻弄する物語を人びとは愛し、語り継いできた。そこに見た日本人の精神性を『京都ぎらい』『美人論』の井上章一さんが解き明かす本連載。第2回は「鞍馬のアイドル」、前回に引き続き「牛若」を取り上げる。

前回●女に見まごう美少年・源義経。つわものの弁慶が家来になった理由

武蔵坊弁慶と源義経、対決の場は

武蔵坊弁慶は、京都で源義経とであい、対決した。薙刀(なぎなた)もつきつけている。だが、義経にはかなわない。負けをみとめた弁慶は、その家来になっている。

こういう話を、比較的はやく書きとめた読み物に、『義経記(ぎけいき)』がある。義経の一代記である。室町時代の初期から中期にかけて、まとめられた。編纂の過程は不明である。14世紀のなかば以後にととのえられたらしいことしか、わかっていない。

義経は1159年に生まれ、1189年になくなった。弁慶との出会いは、虚構だが、1170年代あたりとなろう。その百数十年から二百年ほど後に、『義経記』はできている。遭遇と決闘の物語も、それに近い歳月をへてなりたったのだと、みなしうる。

しかし、『義経記』はその場所を五条橋にしていない。べつの舞台を設定した。初対面には五条天神、そしていさかいには清水寺をあてている。

どちらも、五条通にある。ただし、今の五条通ではない。豊臣秀吉の都市改造以前は、現在の松原通が五条通になっていた。五条天神は、だから今日、松原通に面している。清水寺も、同じ松原通の延長線上、清水坂の東奥にそびえたつ。

かつての五条橋、つまり今の松原橋は五条天神と清水寺をむすぶ道のなかほどにある。『義経記』がつたえる出会いの場と対決の場は、五条橋から、ほぼ等距離に立地する。五条橋という後世の伝承は、両者のちょうどまんなかへ、話を集約させたことになる。

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かつては、今の松原通が五条通となっていた。この五条通を南へうつさせたのは豊臣秀吉である。今日、松原通西洞院にある天神社は、それでも五条天神と称される。秀吉以前の地名をたもっているのである。なお、源平合戦の時代に旧五条橋があったかどうかは、さだかでない