プロダクションの女性デスクの一言
「山田さん、もう、この話は止めましょう」
いまから20年以上も前に所属していたプロダクションの若い女性デスクの言葉。
《この話》とは、不妊治療について。
私が積極的に治療に取りくみ、その体験を連載記事に書いたり、女性誌やテレビ番組からのインタビューに答えたりしていた1998年~1999年頃のことでした。
私は36歳から46歳の10年間、西洋医学、東洋医学含め、計10ヵ所以上の病院や治療院で不妊治療をしていました。タイミング療法から体外受精まで、当時、やれることは「すべてやった」と思っています。
「毎月のように全身麻酔をかけていた」
「治療費に何百万円かかったか、わからない」
「結果がなかなか出ず、精神的に参ってしまい、メンタルクリニックにも通っていた」
40代になった2000年頃には、『婦人公論』本誌で心身ともに辛すぎる不妊治療について話させていただいたこともありました。
それを読んでくださった著名な作家の方から、「山田さん、子どもができてから話しなさい。できてない内に、こんなにサービスする必要はない」と叱られたこともありましたっけ。
テレビ業界でも雑誌業界でも「不妊治療と言えば山田美保子」というようなことになっていたのだと思います。そうしたオファーの電話をいつも受けてくれていたのが所属プロダクションの女性デスクでした。
毎月、毎月、懸命に治療をしていたにもかかわらず、成果は全くと言っていいほどなく、それでも取材に応えなければならず、その度に私が涙声で話をすることに彼女は耐えかねたのでしょう。加えて、まだ「妊活」といった前向きなワードは存在せず、不妊治療のイメージに“明るさ”は皆無でもありましたから、その話ばかりになってしまい、他の仕事に支障が出るのではないか。芸能プロダクションというのは、所属タレントのイメージをもっとも重要視しますから、不妊治療の取材ばかりになり、しかも、その結果、出産しているワケではない私のことを想い、彼女なりの賢明な判断だったのだと思います。