「私が最初に持ち込んだのは、愛用の台所用品です。急なことだったのでもとの家は残し、私は横浜と氷見の二拠点生活という形になりました。」(撮影:宮崎貢司)
子育てを卒業し、親を看取るなど、この数年で家族の形に変化があった紺野美沙子さん。思いがけず始まった神奈川と富山の往復生活で、暮らしはどう変わったのでしょうか。
(構成=上田恵子 撮影=宮崎貢司)

想定外の新生活

いま、横浜と富山県氷見市で二拠点生活をしています。始まりは2年前の夫からのLINEでした。「このたび、富山県氷見市の副市長を拝命しました」という突然の報告に、「ええっ?」と頭の中には100個くらいのクエスチョンマーク。ビックリする絵文字で返したことを覚えています。

夫はテレビ局勤務のプロデューサーで、報道やドキュメンタリー番組を担当していましたが、「映画を撮りたい」と言って2016年に早期退職。もともと地方創生に興味を持っていた人でしたから、地方での暮らしは向いているだろうなとは思っていましたが、まさか縁もゆかりもない土地で副市長の職をいただくとは。青天の霹靂とはこのことです。

コロナ前に息子が独立し、子育ては一段落。時間的余裕ができたところに、早期退職した夫が家を事務所としても使っていたので在宅時間が増えていました。夫婦としてはいわゆる倦怠期。長い時間一緒にいればストレスも溜まりますよね(笑)。たぶん夫も私と同じように息苦しさを抱えていたでしょうし、彼なりに仕事環境を見直す必要性を感じていたのだと思います。

折しも夫が撮った映画『シンプル・ギフト はじまりの歌声』が無事公開となり、仕事の上でも一区切りついた時期でした。そんなタイミングで氷見市の副市長公募にエントリーして、ご縁をいただいたのです。夫が皆さんのお役に立てるならば、と思いましたし、そこからの展開はあっという間。

話が決まったのが20年の2月で、3月末には夫の身の回りのものと、必要最低限の家電・家具を新居に運び込みました。私が最初に持ち込んだのは、愛用の台所用品です。急なことだったのでもとの家は残し、私は横浜と氷見の二拠点生活という形になりました。

富山は私たちにとって未知の土地でした。でも、地方に嫁いだ姉が「どこに住んでもやることは一緒よ」とよく言っていて。実際に暮らしてみると確かにそうだなと実感。買い物するお店が違うくらいで、家事はどこで暮らそうが同じですね。(笑)