プロ入り
卒業後は実業団の日清食品グループに入りつつ、米国のナイキ・オレゴン・プロジェクトに加わった。ファラも参加する世界最高レベルのチームで力を付けようと海を渡った。15年4月には日清食品グループ陸上部を退部し、ナイキと契約するプロとなった。
同年7月にベルギーで行われたナイト・オブ・アスレティックスの5000メートルで13分8秒40の日本新記録を樹立。16年の日本選手権は5000メートルと1万メートルの2冠を達成し、両種目でリオデジャネイロ五輪に出場した。
トラックでスピードを磨いた上で、17年からはマラソンに挑戦。それから2度にわたって日本記録を更新した。まずは18年10月のシカゴマラソンで、設楽悠太が同年2月に作っていた日本記録を21秒縮める2時間5分50秒をマーク。
さらに20年東京マラソンでは、自らの記録をさらに21秒短縮する2時間5分29秒をたたき出した。
前年秋の東京五輪代表選考会マラソングランドチャンピオンシップ(MGC)では3位にとどまっていたが、この日本記録の快走で、東京五輪出場権の最後の1枠を鮮やかにつかみ取って見せた。
21年に延期された東京五輪前には、「ラストレース」と位置づけて臨むことを明らかにし、ファンを驚かせた。
酷暑の札幌で行われたレースでは、終盤に順位を上げる粘りの走りで6位入賞。「次の世代が頑張れば、この6番から絶対メダル争いに絡める。マラソン王国としてのプライドを持って戦ってほしい」と後進の選手たちにエールを送り、一度は現役生活に終止符を打った。