勝頼の失敗は「成功体験に囚われて判断を誤ったこと」

結局、勝頼は「後詰めはしない」という選択をとりました。とてもできる状況ではないし、やれば確実に滅ぶ。ということで、見捨てられた高天神城は落ち、城主の岡部以下、城兵たちはほとんど戦死してしまいました。それで実際に「武田はもうだめだ」ということになった。

信長が1582年、「本能寺の変」の年に行った武田攻めの際には、武田領の武士たちが、戦う前から軒並み降伏してしまいます。ほとんど戦闘になりませんでした。

悲しいことに武田勝頼は、それまでの躑躅ヶ崎城に代わり、新しく新府城という大きな城を築いていました。大きい城は、それなりの数の城兵がいないとむしろ「ここから攻められます」というスキを作るだけ。機能しない。

しかも味方がみんな逃げてしまったので、勝頼は城に立てこもることができなくなってしまった。勝頼は新府城を放棄し、天目山まで逃げたところで自害することになります。

自分の成功体験、過去の栄光に囚われて、判断を誤ってしまった。それが武田勝頼の失敗だったということになります。

※本稿は『「失敗」の日本史』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。


「失敗」の日本史』(著:本郷和人/中公新書ラクレ)

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