結婚までに料理修行をしていた津村
家庭生活における吉村の見込み違いは他にもあった。
婚約中に津村は、「ご飯も炊けないし、お味噌汁も作れない」と言っていた。
ところが、伊豆の新婚旅行から帰って、アパートの一室で迎えた朝の食卓には、ベーコンエッグや野菜サラダが並び、津村がとりすました表情で味噌汁を差し出した。
津村が口癖のように言っていたことは嘘だったのか。いや、嘘ではない。九歳で母親を亡くして料理らしいことも教わらず、結婚が決まるまで料理をしたことがなかったのは事実のようだ。
負けず嫌いの津村は、結婚までに密かに料理修業をしていた。料理雑誌を見て大学ノートにレシピを書き写し、ソースやドレッシングの作り方まで独学でマスターしたのだ。
〈……私の最大関心事は、「食べる」ことと「飲む」ことに集中されている。〉(『蟹の縦ばい』中公文庫)
という吉村にとって、これはうれしい誤算だろう。
後年、津村は二日に一度お手伝いと献立会議を開いていた。分厚い献立リストがあり、それを見ながら主菜と副菜を決めていく。料理に関して津村の座右の書は丹羽文雄夫人の『丹羽家のおもてなし家庭料理』(丹羽綾子著、講談社)で、津村は和洋中のおせちまで試して作っている。
日本の四季を愛で、伝統行事やしきたりにこだわった吉村は、食事も和食を好んだのではないかというイメージがある。ところが意外なことに、ステーキやタンシチュー、レバーやいくら、キャビアといった洋食や高カロリーのものが好物だった。
「くいしんぼう亭主」というタイトルで津村が記している。
〈そんな男を亭主に持ったために、私はのべつまくなし、食事のことに追われている。かれは朝食が終ると、昼は何を喰おうかなァ、と言う。昼食が終ると、晩めしは何がいいかなァ、と言う。夕食がすむと、明日の朝は何が喰いたいのかなァ、と言うのである。〉(『風花の街から』毎日新聞社)