家出をしてはじめてまとまって眠れた
無意識に海に向かっていた。車を走らせる道すがら、独身時代に読んだ小説を思い出した。育児の疲労とストレスからうつ病になった妻を、夫が正論で追い詰める物語。最終的に妻は夫に離婚届を突きつけるが、夫は自分の何がいけなかったのか本当の意味で理解しようとしない。妻が悪い、自分こそが被害者だと矢印を外側ばかりに向ける夫の姿は、実に哀れで滑稽だった。
海で波音を聞きながら物語の結末を思い出そうとしたが、どうしても思い出せなかった。代わりに訪れた抗いがたい希死念慮は、絶え間なく私を波間へと誘惑した。夜の海に入れば、助からない可能性が高い。いくら泳ぎが達者でも、夜の海は勝手が違う。
息子を怒鳴ってしまった私は、“いいお母さん”にはなれない。私のような人間に育てられるより、もっと心身共に健康で、頼れる両親がいる普通の女性が母親になってくれたほうがあの子のためになる。そのために私は消えるべきだと、耳元で誰かがひっきりなしに囁く。その声に従おうと思ったところで、意識が途切れた。気づいたら朝日が昇っていて、波間に橙色の筋が揺蕩っていた。
眠れた。細切れではなく、まとまって数時間眠ることができた。たったそれだけで、触れそうなくらい間近にあった希死念慮が遠ざかっていた。逡巡しながらも帰宅した私を出迎えた元夫の腕に、泣き疲れて眠ったであろう息子の姿があった。
「お前は母親失格だ」
そう言った彼に、私は即答した。
「離婚しよう」