リズム感、度胸の良さ……、卓越した詩人としての才能

こんな女性は当時見当たらなかっただろうから、またたく間に面白い女がいる、男と同等に渡り合える、打てば響くような感性の持ち主として知れ渡ったに違いない。

私がまず清少納言に興味を持ったのは詩人としてだったと思う。短いものは詩そのものを暗示し、長い文章は、アフォリズム、詩論のようなものに思えた。

当時、私は早稲田大学で詩を専攻していて、卒論は萩原朔太郎だった。朔太郎も独特の詩とアフォリズムを多く残している。

全く感性は違うものの、清少納言の言葉の使い方、思い切りの良い思考は、私には、詩だと思えて、近しいものを感じたのかもしれない。

日本の詩は、現代になるにつれて難解さを増したために、残念ながら多くの人に親しまれることが少なくなってしまったが、本来文学の中で最高位に置かれていたものが詩という表現形式であり、欧米の文学では今もなお詩が散文、小説、評論などの中で最高位に置かれている。

私は、清少納言の「枕草子」を原文で少しずつ読み進むうちに、その思いを強くした。

リズム感、言葉の使い方、感性など詩人として最高位にあるものが、早くも平安時代、一千年前に現れていたのだ。一人の宮仕えをする女性の手によって。

その度胸の良さ! 男達もたじたじとする表現力を持っている女性は、ともすると男達から煙たがられたり可愛くないという理由で遠ざけられることが多いものだが、当時の貴族社会においてはそれをも面白がられたり、論争を試みたり、貴族社会の男性達も文化的に十分成熟している奇有なる時代だったと言っていいかもしれない。

などと言うと清少納言という女性が鼻持ちならない生意気な女性というイメージを持たれるかもしれないが、実際には宮仕え前には、田舎まわりの役人を父に持つ恥ずかしがりやの少女だったという。