大震災の前兆

震災の日は、2時間前から庭先に鳥の姿は一羽もなかった。徹夜仕事になって数時間仮眠を摂り、目覚めて庭に出た時、

――おや、今日は一羽も鳥が来てないナ。どうしたんだ? まあいいか、静かで仕事も捗(はかど)るだろう……。

『またどこかで 大人の流儀12』(著:伊集院静/講談社)

あの時、どうしたんだ? という思いがほんの少し頭の片隅に浮かんだのだが、それがあの大震災の前兆とは誰が想像がついただろうか。天災とはそうしてやって来るのだ。

科学が進歩していると言うが、肝心なことは何ひとつわかってやしないのではと思う。

文字など持たずとも、鳥たちは天災を予見しどこかへ避難することができる。

午後、南三陸町の蕎麦屋さんと家人が電話で話していた。3年前、復興の様子を皆で見に行った折に知り合った女性だ。

被災した大半の人は、あの凄(すさま)じかった時間を思い出したくないというのが本音だろう。なるたけ忘れるようにしている人の方が多いはずだ。

それでも人間の記憶は残酷なもので何でもない時に記憶が顔をのぞける。かと思えば東京で人とお茶を飲んでいる時、何かの拍子にそばの物が揺れたりすると、咄嗟(とっさ)に身構えてしまう。そうして何でもなかったとわかると、一人で胸を撫で下ろしている。情ないような気もするが、仕方ないことである。