チャペルの前のベンチで櫻井先生は聖書を読んでいた。

 ハルが、ちょっといいですか、と声をかけると、もちろんどうぞ、とベンチに座るようにうながす。

 昨夜、秀梅からきいた話を思いだしながら、ハルは十年前に秀玲の退学をめぐってなにがあったのか知りたいと簡潔に告げた。

「懐かしい名前だわ。ずいぶん昔のことを調べてるのね――」と櫻井先生はぽつりといって黙り込んだ。続く言葉がなかったので、秀梅が口を開く。

「わたし、林秀玲の妹です」

「ええ、名簿を見たときにそうじゃないかって思ったわ。よく似ているわねえ。お姉さんはお元気かしら?」

 その問いには答えずに秀梅は震える声でいった。

「ほんとうのことを教えてください。姉の退学の原因は、ほかの生徒たちからのいじめだったんじゃないですか? 学校でたったひとりの台湾人だったし」

 思慮深さより行動力とはいったものの、秀梅がここまで直接的な質問をぶつけるとはまったく思っていなかった。

 櫻井先生は驚いたような顔をして、「そんなことはないわ! あなたのお姉さんはね、成績優秀で、だれもが憧れるようなひとだったの。台湾人だからっていじめられたりしないわ」と否定した。

「じゃあ、そんな姉がどうして退学になったんですか。だれも、わたしにほんとうのことを教えてくれなかったんです」

 ざわざわと風が吹いてきて、秀梅の髪を揺らしていく。櫻井先生は、しばらく視線を宙に泳がせて考えているようだったけれど、やがて秀梅を見て、わかったわ、といった。

「もう昔のことだし、伝えてもいいわよね……でも、絶対にここだけの話にしてね」と念を押すようにいった。

 ――記事にするのはどうなのかしら?

 そう思ってハルが秀梅に視線を送ると、いまはなにもいわないで、というふうに秀梅は首を横にふる。 

「林さん、あなたのお姉さんが、理由をいえなかったのはね、恋をしたからなの。それも同級生と。そして……こえてはいけない一線をこえてしまった。創立したばかりのこの学校は不祥事をだすわけにはいかなかった。いまだって女子教育は道を誤らせるって声高にいうひとがいるくらいだしね。ご両親があなたに秘密にしていたのも無理はないわ。だって、不名誉なことですもの」

 ハルは秀梅が手をきつく握りしめているのがわかった。秀梅は櫻井先生の言葉が途切れると大きく息を吸った。

「だれかが姉のことを密告でもしたんですか。自分から明かしたりしないでしょう」

「たしかに、密告はあった。でもそれを知ってどうするつもり? もうみんな卒業してしまったわ。いっておくけど密告者をかばうつもりじゃないのよ。だれかは知らないけど、あのとき、だれだって密告者になりえた。だって、あなたのお姉さんもそのお相手の明日子(あすこ)さんも、だれもが羨むようなふたりだったんですもの。――わたしだってあなたのお姉さんに憧れていたわ。一度も話したことはなかったけどね」

 予鈴がなって立ち上がった櫻井先生を引き止めるように秀梅はいった。

「ひとつだけ教えてください。明日子さんってかたはどうなったんですか?」

「たしかね、長野の女学校に編入したと冬休みのあとに担任の先生がおっしゃったわ。それからの消息はわからない。そうだ、林さん、わたしの質問に答えていないわよ。お姉さんはお元気?」

 秀梅は、はい、おかげさまで、とつくり笑いを浮かべた。

櫻井先生がいってしまって、ハルはすぐに口を開く。

「どうして、ほんとうのことをいわないの? お姉さんは家をでていってしまったんでしょう?」

 秀梅はなにも答えず顔を背けるように、櫻井先生がいなくなったベンチに視線を向けていた。

その顔をのぞきこんでハルははっとした。秀梅は唇を噛んでいまにも泣きそうな顔をしている。

「悔しいの! 元気? なんてひとごとみたいにきいてきて。いまのいままで忘れていたくせに! くだらない密告のせいで退学になった台湾人の女の子のことなんて。姉は作家になりたいって幼いわたしに話してくれたの。でも、その夢は完全に断ち切られてしまった」

「先生がひどいことをいっていたようにはあたしには思えなかったけど――」

ハルをきっと睨むと、秀梅は目の端の涙を手で拭った。

「それはあなたが鈍感だからよ。先生は、明日子さんは冬休みのあとに長野の女学校に編入した、といった。退学になっていないのよ! せいぜい謹慎処分というところだったんじゃない? つまり、姉さんは学校を追いだされ、明日子さんはもっと軽い処分だった。これが差別でないなら、なにが差別なの? 恋愛ってひとりでするものじゃないことくらい、鈍いあなたにもわかるでしょ」

言葉のひとつひとつが胸に突き刺さってくるようで、ハルは思わず秀梅から目を逸らした。

ごめん、と謝ろうと思ったときには、秀梅はもうそこから立ち去っていた。 

(続く)

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