聞く耳を持たずに宿泊した当時の支配人
10年ほど前の話だという。
当時の支配人だった後藤氏は、着任早々に4階奥のその部屋だけが常に空室であることに気がついた。宿泊記録を見ても、その部屋だけ使われた履歴がない。フロントの従業員は、その部屋に宿泊客を案内することはなかった。たとえその部屋が空室だったとしても、それ以外の部屋が予約済みになった時点で『満室』という扱いにしている。
「どうしてこの部屋だけ予約を入れないんだ?」
後藤氏は従業員にそう訊いたらしい。おそらくその従業員は、正直に昔から引き継がれているその部屋のルールを伝えたのだろう。
「そんなバカな話があるか」
後藤氏は一喝した。本社からは当然、使える部屋はすべて稼働させよと命じられている。根拠のない噂で部屋の稼働率を落とすわけにはいかない。
「わかった、そこまで言うなら俺が今夜この部屋に泊まる」
後藤氏は啖呵を切った。
昔からそのホテルで働いている古参の従業員らは、必死にそれを止めたらしい。しかし、彼は聞く耳を持たなかった。その日の夜、後藤氏はその部屋に宿泊した。
夜明け前の深夜――。
1階ロビーのエレベーターからふらふらと出てきた後藤氏を見たのは、この話をしてくれた従業員のAさんだったという。薄暗いロビーを足を引き摺るように歩く人影が、後藤氏だと気付くまで、少し時間が掛かったそうだ。
髪の毛は掻きむしったようにボサボサ。
顔色は土のように悪い。
口からは唾液なのか吐瀉物なのか、液体が垂れている。
「支配人! どうしたんですか?」
Aさんは驚いて声を掛けた。
ぐ……。ぐ……。
呻き声を漏らしながら、何かを訴えるように後藤氏はこちらを見た。
「いったい何があったんですか?」
しばらくの沈黙のあと、彼は目を見開いてこう言った。
「本当だった……」
後藤支配人は、死体のように力なくその場に倒れた。