無数のアブラゼミ

飛び出してくるわけではない。まるで荷物のように、茶色い身体を持つ無数のセミが、トランクの隅々まで隙間なく詰め込まれていた。それらは微かに蠢いており、羽や足が絡み合って、一つの大きな塊のようになっていた。数え切れないほどの複眼が、薄暗い駐車場の光を反射してきらめいていた。

沼田さんの手が反射的に動いた。トランクの蓋を勢いよく閉めてしまったのだ。その瞬間、手のひらに伝わってきたのは、無数のセミの羽音と身体の振動だった。ザワザワという細かい音が、金属を通じて手のひらに響いてきた。

警察官も目を丸くしていた。普段の慣れきった表情は消え失せ、明らかに動揺していた。

「な、何だったんですか、今の……」

しかし、女性はペットが見えなかったことで再び錯乱状態に陥っていた。

「開けて! お願い、開けて! あの子が苦しんでるの!」

女性の懇願する声に、沼田さんは困惑した。あのセミの塊と再び対面することになると思うと、胸の奥が重く沈んだ。しかし、警察官も事態を把握したがっている様子だった。

仕方なく、沼田さんは再びトランクに手をかけた。女性と警察官が身を寄せて中を覗き込む。

蓋が開いた。

トランクは、完全に空だった。

(写真はイメージ。写真提供:Photo AC)

先ほどまでそこにあった無数のセミは、跡形もなく消えていた。羽一枚、足一本残っていない。匂いも、音も、何の痕跡もなかった。まるで最初から何もなかったかのように、トランクの中は完全に静まり返っていた。

その瞬間、女性の表情が急に変わった。錯乱状態が嘘のように消え、きょとんとした顔でトランクを見つめている。

「あれ……? なんで……? 私、なんでここにいるんだろう……」

女性は自分の置かれた状況を理解できずにいた。涙の跡は残っているものの、先ほどまでの激しい動揺は完全に消えていた。

警察官が落ち着いた声で事情を聞くと、女性はペットショップの一時預かりサービスにペットを預けたことを思い出した。実際、ペットショップに確認を取ると、小型犬一匹の預かり記録がしっかりと残っていた。手続きをしたのは、他でもない女性本人だった。

沼田さんは、この一件が今までの赤ちゃんの騒動とは全く違うことを肌で感じていた。これまでの錯乱した客たちは、確かに思い込みによるものだった。しかし、あのセミは何だったのか。密閉されたトランクに、なぜあれほど大量のセミが詰まっていたのか。そして、なぜ一瞬で消えてしまったのか。

騒ぎが収まった後、沼田さんは工具の片付けなどがあり、しばらく駐車場に残っていた。

そこで、女性がペットショップで小型犬を受け取って車に戻ってくるところを目撃した。小さな茶色い犬で、女性の腕の中で尻尾を振りながらキョロキョロと周囲を見回している。

女性が車のドアを開けようとしたとき、白い車の屋根に黒光りするカナブンが止まっているのが見えた。女性は、それを素手で払い落とした。「この子、虫が苦手なの」

女性は腕の中の犬を見下ろしながら、沼田さんに向かって優しくそう語りかけた。まるで愛する子供を守るような、慈愛に満ちた表情だった。

沼田さんは、その光景を見て言葉を失った。