「子どもの頃は母や従妹たちと映画館に通いました。高校生になると友人を誘って。ロードショーは高くて行けないから、1本50円、3本立て150円の名画座へ」

戦争を生き抜いて、映画に夢中に

生まれは1936年。間もなく日中戦争が始まり、銀行員だった父は召集されて戦死。母は、女学校を出てすぐにお見合い結婚した相手に死なれて、私という乳飲み子を抱え、戦禍を生き抜きました。

母がいちばん大変だった時期は、疎開先の愛媛から焼け野原の東京に帰ってきた頃。幸い、母の実家は残っていたけれど、焼け出された親戚たちと暮らして、食べ物にも苦労していました。

母は、国が戦没者寡婦に職を与えるために作った、教職免許を取れる養成所に行きました。でも戦争中だから、学徒動員で工場に通う生徒の付き添いなどをしたようです。その後、母は会社員になり、60歳の定年まで勤めあげました。

日本中が荒廃して何もない時代、唯一の娯楽は映画でした。映画館といってもバラックみたいな粗末な建物で、椅子もベンチのところがあったくらいです。

フィルムは使い回しの傷だらけで、映像に「雨が降る」状態ね。途中でフィルムが切れて、映写技師さんがつなぐ作業の間は真っ暗に。それでも続きが観たいので、お客は黙って待っているんです。