夫と二人三脚でデザイン事務所を設立
私は、大阪府池田市で花農家を営む両親のもとに生まれました。6人きょうだいの2番目だったので、いつも弟や妹の子守りをさせられていましたね。池でドジョウを獲った日には、母が割いて七輪で焼き、ドジョウ丼を作ってくれるんです。
自分で言うのもなんですが、絵は小さい頃から上手だったようで、近所の二科会会員の画家さんのところへ習いに行かされていました。内心は、絵が好きというよりも、その時間は下の子たちの子守りをしないで済むな、という思いでしたね。
私は女学校を出ただけで、美大には行っていません。家の手伝いをしながら過ごしていましたが、20歳の頃に母の伝手で鐘淵紡績(カネボウ)の意匠室に就職することになったのです。
当時、大阪は繊維の町として知られ、景気もよかった。同じ職場には後に日本を代表するグラフィックデザイナーとなる田中一光さんや、夫となる粟辻博も在籍していました。次第に大阪松竹座やOSK(大阪松竹歌劇団)とも仕事をするようになり、ラインダンスの衣装などを作ったりして、充実した時間でしたね。
23歳のときに結婚して、二人で上京。下北沢の6畳のアパートで新婚生活を始めました。もともと絵描きになりたかった夫は、二科展などに絵を出展したりする一方、古巣であるカネボウからも仕事をもらったりして生計を立てていました。
そして58年、テキスタイルデザインが主な仕事の粟辻博デザイン室を一緒に設立したのです。当時は高度経済成長の真っ只中。「デザイン」というジャンルが勢いのあった時代でしたし、楽しかったですよ。