仮名手本忠臣蔵
その伝で言うと、吉良上野介(義央<よしなか>。よしひさ、とも)邸のあった土地が蘇ることができたのも、武士とは違う価値観を持つ町人の存在が大きいのではないか。
江戸中期、浅野内匠頭(長矩)が、江戸城の殿中で上野介に斬りつけた。理由については、朝廷の饗応役を命じられた内匠頭が、礼法指導者である上野介に十分な付け届けをしなかったため、パワハラに遭い、たまりかねた内匠頭が斬りつけたとされるが、真相は諸説あって明らかではない。
内匠頭は即日切腹を命じられ、お家は取り潰しとなり、一方の上野介にはお咎めなしであった。そのため翌年、主君の仇を討つために、47名の赤穂浪士が吉良邸に討ち入って(実際に討ち入ったのは46名)、上野介の首級をとり、さらにその翌年、浪士たちも切腹した。
この事件は平和な世間を騒がし、『太平記』(室町時代)の世界に仮託した(江戸時代には武家の出来事を文芸にするのは禁じられていたため)『仮名手本忠臣蔵』として文楽や歌舞伎の人気演目となり、今も時代劇のネタとして名高い。
