女優として多忙を極めても、暮らしは大切に。どのような時代でも、自分には誠実に。没後30年となるいまも、その生き方は多くの人を惹きつけ、60歳から筆をとった随筆は長く愛されています。筋の通った考えを著書からご紹介します
●沢村貞子(さわむら・さだこ)
1908年東京生まれ。日本女子大学在学中、教師への夢を断ち、築地劇団に参加。投獄を経験する。34年に映画女優デビュー。以降、名脇役として舞台、テレビでも活躍。文筆に長け、『私の浅草』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。『貝のうた』『わたしの献立日記』『寄り添って老後』『わたしの人生案内』など著書多数。81歳で女優を引退し、執筆に専念。96年没
1908年東京生まれ。日本女子大学在学中、教師への夢を断ち、築地劇団に参加。投獄を経験する。34年に映画女優デビュー。以降、名脇役として舞台、テレビでも活躍。文筆に長け、『私の浅草』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。『貝のうた』『わたしの献立日記』『寄り添って老後』『わたしの人生案内』など著書多数。81歳で女優を引退し、執筆に専念。96年没
女子大生の私が「一生懸命働く貧しい人たちに幸福を……」という言葉にひかれて、新劇運動に加わり、結局、治安維持法に触れて永い未決暮らしをしたあとも、両親は一言も愚痴を言わなかった。世間に対して恥ずかしいとも言わない母は、
「お前のしたことは悪いことではないよ」
と慰めてくれた。兄や弟の励ましの言葉も、もう一度、人生をやり直すきっかけになった。そんなことも、維新の動乱のあと、父と母が寄り添ってこしらえた、小さい家庭のつつましい家風の一つかも知れない。
大東亜戦争も、名家、素封家と言われ、その家柄を誇った家を、数多く破壊した。(中略)
「もとを正せば、私の家は……」
と言ってみても――烈しく揺れ動き、右に左に移ってゆく社会で、(中略)たいして、気にすることもないように思うけれど……。
夫婦それぞれが違う家で育った以上、味噌汁の味の好みが違うのは当り前のこと――夫の家とも妻の家とも違う――二人だけの味噌汁の味をつくるのが大切ではないかしら。(中略)結局、甘味噌と辛味噌を適当にまぜた、しじみ汁、大根千六本の味噌汁を毎朝こしらえることになり、それぞれ、けっこう満足している。(中略)
お互いに慰めあい、いたわりあうこころ――それがわが家の家風として根づいている。
(『寄り添って老後』より)