もしもタイムスリップできるなら
母に叱られたかどうかは記憶にない。たぶん、叱らなかったと思う。私は病院に来た橋本くんに腹を立て続け、母が拾い集めたカップケーキも拒否したが、絵本は受け取って、何度も読んだ。何度も何度も読んだのに、その絵本のタイトルだけはどうしても思い出すことができない。
橋本くんとはそれっきり、一度も会話することなく小学校を卒業してしまった。いや、もしかしたら、橋本くんには謝ったかもしれない。橋本くんは、素っ気なかったような気もする。卒業後、一度も彼には会っていないし、いまどうしているのかも知らない。
橋本くんには、本当に悪いことをしてしまった。あの時の自分の行動を考えると、胸が痛む。私は橋本くんに腹を立てていたのではなく、元気な橋本くんに嫉妬していたのだ。自由に出歩くことができる橋本くんに、学校に行くことができる橋本くんに、橋本くんだけではなく、病院の外で元気に暮らす子どもたち全員に、私は心から嫉妬していた。その歪んだ気持ちを向けられた相手が、たまたま橋本くんだったというだけのことなのだ。
私にとって、この橋本くんとの苦い思い出は、強い教訓となって残り続けている。去って行く悲しそうな彼の後ろ姿がどうしても忘れられず、それを引きずり続けてここまで来てしまった。もしもタイムスリップできるなら、あの日の病院に戻って、橋本くんとお母さんを追いかけ、そして謝りたい。幼い心を傷つけられ、悲しい思いをしている彼に、「橋本くん、来てくれてありがとう。怒っちゃってごめんね」と伝えたい。
売店の前で橋本くんのことを思い出し、涙が出そうになって、慌てて我慢した。あの日々から40年後に、再び病院に戻ることになるなんて、夢にも思っていなかった。また、あの苦しい手術を受けなければならないと考えると、絶望しそうだった。それでも、やり遂げるしかない。乗り越えるしか道はない。とりあえず、平常心。それが大事だ。
そう考えながらイスから立ち上がると、エレベーターまでゆっくりと歩いて、病室に戻った。
『更年期障害だと思ってたら重病だった話』 村井理子・著
中央公論新社
2021年9月9日発売
手術を終えて、無事退院した村井さんを待ち受けていた生活は……?
共感必至の人気WEB連載、書き下ろしを加えて待望の書籍化!