内装工事が一段落した後は、箱根の家にあるモノの整理を進めていきました。敷地内に3棟建てた家から、収納がほとんどない平屋への大移動でしたから、持ち物を30分の1に減らす必要があって。家具に食器、衣類……吟味していたら未練が募るばかりなので、最後はなるべく見ないようにして、手早くゴミ袋へ入れていったのです。

大量に所有していた台本や仕事の資料は、思い切って処分。写真も10分の1くらいに減らしたでしょうか。若かりし頃の宝物ではありますが、「過去は過去。今の自分がすべて」と考えて、エイヤッとゴミ袋へ。不思議なもので、いざ捨ててみてもさみしいとは感じません。いつかはやらなければいけなかった持ち物の見直しを、60代のうちにできてよかったです。

一方で、どうしても捨てられないモノもありました。昔の襦袢や着物の質は素晴らしいものですから。コロナ禍で家にこもっていた昨年の春には、それらをせっせとマスクに作り直し、友人やご近所の方たちに差し上げたりもしました。とっても喜んでもらえたんですよ。

着物の端切れや手ぬぐいなどを縫って作ったコースター

母の存在を感じられる家を求めて

人が理想とする家や暮らし方には、その人の価値観、あるいは人生観が表れるように思います。私が古い家にこだわるのは、子ども時分に家族と過ごした、木造の小さな一軒家が恋しいから。「母の存在を感じられるような家で暮らしたい」という思いが強いのです。

母が愛用したハタキを、先端の布を定期的に取り替えて、丘さんも大切に使っている

当時暮らしていた東京・王子は、濃い近所づきあいがあった町。幼稚園に行かなかった私は、いつも家で母との時間を過ごしていました。面倒見がよく大らかな母は、ご近所さんが家の前を通りかかれば、「ちょっとお茶でも飲んでいかない?」とよく誘っていたものです。おしゃべりをする賑やかな声や、温かな空気が客間に満ちていたことを、ハッキリと覚えています。

人に慕われ、裁縫や料理が上手だった母のような女性になりたい、と思いながら私は生きてきました。亡くなってから35年あまりが経ちますが、今でも母の「何とかなるさ」という口癖がよみがえるとともに、「母だったらどうするかしら」と考えることがあります。