圧倒的表現が力をくれる

もう一人、私が心揺さぶられる表現者がいる。
フィギュア界のキングオブキング、羽生結弦選手だ。

平手友梨奈と同様、彼は空気を操る人だと思う。
彼がリンクに現れた瞬間、世界は静寂をまとう。

曲が始まる直前、彼がふっと力を入れると、空気が一瞬で変わり、ピンっと張り詰める。
もうその瞬間からは彼の世界だ。彼にピントが合い、他は背景になる。

夜叉のような、鬼気迫る表情。流し目で見せる妖艶な表情。
両手を添えて、まるで今にも壊れそうなものを見つめるような憐憫の表情。
最後にこぶしを突き上げたときの王者の風格が漂う微笑み。
そして戦いを終えた後の柔らかく透き通るような笑み。

どの瞬間を切り取っても、これ以上ないくらい美しく、芸術的だ。

音楽がもし目に見えたなら、きっと彼のような動きをするんだろうな、と思ったりする。それくらい、彼の音の色や強弱、緩急を、表情や手指の動きで表現するセンスは天性のものであり、超人的であるとすら感じる。

そんな身体と精神力のすべてを使い、まるで命を削るように表現する姿を見るたび、胸が揺さぶられ、目の奥が熱くなる。
彼もまた、その一挙手一投足が世界中の関心を集め、熱狂とともに嫉妬や憶測、屈折した感情を沸かせる。

ハレーション、という言葉がある。もともと写真や映像の用語で、「光が強く当たりすぎて画面が白くぼやけたり濁ったりする現象」のことを指す。そこから転じて、よくない影響を周囲に与えること、という意味で使われることがある。

光、つまり個性やインパクトが強いほど、人のさまざまな感情を刺激する側面があるのかもしれない。

そんな宿命を背負いながらも、先に挙げたふたりは、自分の感性や本能に正直で、自分が自分であること、信じる表現の追及に決してよどみや迷いがない。

その姿から、誰が何と言おうと、表現と、それに付随する評価、人々の心に刻まれた感情は、誰にも奪えない。そんな事実を教えられるのだった。

圧倒的表現は、迷ったとき、心が沈み切って力がわかない時に、私に表現する素晴らしさと価値を思い出させてくれる。

次元は違えど、文章の世界で、私もまた表現していこう、そんな思いにさせられるのだった。

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