私の目の中にはまだ野火が燃えているのに
女徳を書く時、私は全く取材だけのつもりで、仏教書を置いた古本屋をめぐり、寺々を訪ね、得度の様式について知ろうとした。どこでも思うような回答が得られなかった時、偶然、古本屋の店で質素な法衣の老僧に声をかけられ、智積院を訪ねたらよいと教えられた。その後、老僧は、私の顔にじっと目をあてて、
「あんたが得度なさるのやな」
といった。私は愕(おどろ)いて、小説のための取材だといった。老僧はおだやかに笑って、
「そのうち、あんた自身の役に立つやろうな」
とつぶやいた。行きずりの老僧のことばはなぜか私の心の底にとけぬ石のように落ちていた。
放浪に憧れ、出家遁世に憧れての歳月は長い。
ただそれを今年こそと決したのには理由がひとつある。それは考えれば考えるほど、出家とはエネルギーのいることだと思ったからである。今の健康と体力が果して来年も保つだろうか。
人より若いとおだてられたところで私は既に50歳をこえた。活力の充実した今を逃しては、心もくじけ、躯も萎えるのではあるまいか。あれもこれも気がかりはまだ多く、もっと身辺整理もすっきりとしたい。しかし「徒然草」にもいっている。
「大事を思ひ立たん人は 去りがたく 心にかからん事の本意を遂げずして さながら捨つべきなり」
と。あれもこれも片づけてなど思ううちにたちまち、一生がすぎてしまう。
この年の始め私は今年こそと心を決めた。するとそれから、心にかかっていたあれもこれも、まるで奇蹟のように自然に片づいていくのであった。私はある怖れにおののきながら、やはり超越的なものの力を信ぜずにはいられなかった。
気づいた時、頼んでおいた車掌が起してくれていた。
「一ノ関ですよ」
私の目の中にはまだ野火が燃えているのに。
※本稿は、『99年、ありのままに生きて』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
『99年、ありのままに生きて』
(著:瀬戸内寂聴/中央公論新社)
<書籍概要> 大正・昭和・平成・令和 4つの時代をかけぬけて――「今、生きていてよかったと、つくづく思います」。デビューまもない36歳のエッセイから、99歳の最後の対談まで。人々に希望を与え続けた、瀬戸内寂聴さんの一生を辿る決定版。