引き揚げるまで、私は家庭生活に何の不満も感じたことがなかった
もう35年も昔、私は家庭の主婦になった。昭和18年の秋、戦争で繰り上げ卒業をしてすぐ、すでにその年2月に結婚して入籍していた相手と、彼の勤め先の北京へ渡り、家庭というものを営んだのである。
今でいえば学生結婚をしたわけだが、見合いで結ばれ、今の若い人にいえば噴飯されそうだが、私たちは結婚式を挙げ、旅行もしながら、セックスはおあずけにして、「浄らかな」関係を保ったのである。
なぜ、そんな下らないことをしたかといえば、ひとえに私が当時の淑女教育を鵜のみにして、そんなことは、「正常な家庭生活を営まないかぎり行っては、ふしだらである」と決めこんでおり、私の意見を相手は迷惑ながら受けいれてくれたという次第であった。
かくて私は「正常な家庭生活」を北京で営みはじめた時、幸福であった。家庭の外は日本の中国侵略戦争の只中であり、住んでる場所も、占領した土地でありながら、私は自分の「家庭生活」が大きな国際的な罪悪の上に営まれているなど考えたことがなかった。むしろ、日支友好の捨て石になるくらいの高揚した心持ちではりきっていた。
私は師範大学の女子学生の曲さんというお嬢さんに中国語を習い、老頭(らおとおる)と呼び名もしらない肺病病やみのボーイに掃除をしてもらい、春寧(ちゅんにん)という少女を阿媽(あま)として使っていた。白系ロシア人の経営する赤煉瓦の、今式にいえばホテルを改造したアパートに住んで快適であった。
北京で子供を産み、終戦を迎え、その翌年の夏、引き揚げるまで、私は自分の家庭生活に何の不満も感じたことがなかった。というより、感じる閑がなかったのである。
すでに私の生涯についてまわった引越しつづきの運命は、その頃から始っており、私はわずか3年にも満たない北京暮しの中で、7回も棲いを変えていたのである。その間に夫の大病、出産、夫の現地召集、終戦、引き揚げという一大事つづきであれば、「家庭」についてしみじみ考証をめぐらすなどという高級でメタフィジックな時間など見出せるはずもないではないか。