認知症でも失っていないもの

父が認知症の診断を受けてから、6ヵ月が過ぎる。数年前から急に怒りっぽくなったり、何か得体のしれないものに苛立ったりしていた父。日々能力が衰える自分に恐怖を持っていたのだと思う。

父が最もほっとした表情を見せるのは、「年を取ったら誰だってそうなるよ」と慰められた時だ。私が頼まれた買い物を忘れたり、一度言ったことをまた言ったりすると、嬉々として言う。

「俺より先にボケるなよ!」

老々介護の域に入っている私としては、あまり笑えない。さりげなく言い返す。

「みんな歳を取るんだよ」

すると父は姪の名前を口に出し、彼女もそう言ってくれたことがあると微笑んだ。

姪は、父を一緒に見守ってくれている義妹の娘だ。夏に結婚式を挙げるのが決まっていて、先日両家の顔合わせ式が行われることになった。姪の父、つまり私の弟は亡くなっているため、姪が「おじいちゃんにも顔合わせに出てほしい」と頼んできた。

私は父のクローゼットから、30年以上前の現役時代のスーツを出し、ワイシャツをハンガーにかけておいた。ネクタイは父が好きなものを、自分で選んだ。靴はスルっと履けて楽だけれど、カジュアルではないものを、靴箱から選んで出しておいた。

顔合わせ式の朝、迎えに行くと、シューズボックスの扉が半開きになっていた。中を覗いたら靴クリーム等が入った箱の蓋が開いていて、使った形跡がある。

「パパ、自分で靴を磨いたの?」

「あぁ、俺がした」

玄関に並べてある父の靴が艶やかに光っている。
私は、不意に涙が込み上げてきた。
認知症だって、孫の晴れの日を祝う喜びが、父の中に溢れている。 

今度の日曜日は父の日。今年こそ照れずに父に言おうと思う。

「パパ、ありがとう。私はあなたの子どもで良かった」

◆本連載は、2024年2月21日に電子書籍・アマゾンPODで刊行されました