その養成所時代、仲代さんは映画のオーディションを受けに行って9回も落とされた、と聞く。なんと見る眼のない人たちばかりだったのだろう。
――まぁ、俳優学校に3年通う間も、徹夜でパチンコ屋に勤めてたくらいですから、その生活ぶりが顔に出てて、監督の求める青春の息吹が漂うような明るさ、というものがなかったからでしょうね。同期の宇津井健なんか早速抜擢されましたから。
やはり同期の佐藤慶は落ちてばかり。佐藤は、「俺たちは演劇をやるために俳優学校に入ったんだから」って、監督の前でも横向いたりしていい顔一つしなかったんで、まぁ当然でしょうな。僕もろくに風呂にも入れず、薄汚れてましたしね。
私を支えてくれた存在
俳優座では偉大な大先輩の青山杉作、千田是也。映画界では世界の黒澤明、小林正樹など、多くの名監督との出会いが今日の仲代さんを作るのだが、やはり第二の転機となるのは生涯の伴侶となる宮崎恭子さんとの出会いではないだろうか。
――そうだと思います。僕より2年先輩の素晴らしい女優さんだったんですけど、お互いに好きになって、結婚するとなったら、役者としての資質から言ってあんたにはとても敵わないから、私は裏方に回るわ、と言って、きっぱり役者をやめてしまった。
私の役者としての生き方、演技の基本を教えてくれたのは恭子さんですよ。彼女はもともと絵描き志望で、文学少女でもあったんですね。だからたとえば海外の戯曲でも、翻訳家の訳した日本語が観客の耳にうまくなじまないことがある。
それをあの人が訳すと、とてもよくなって、そういう才能はすごくありましたね。隆巴(りゅうともえ)という名前で脚本も書いてるし、演出家でもあったしね。
だからまぁ、夫婦ではあるけれども、なんだろう。共同制作者みたいなものですかね。