不純の中で初めて人は本当の大人になる
普通の場合、私たちは見知らぬ人、名前は知っていても個人的にその言動にふれたことのない人の生き方を信じる何の根拠もない。
しかし幼児性は、さまざまな図式によって、人を判断し、それを信じる。その図式も時代の流れに動かされる。有名なら信じる。金持ちは悪人で、貧しい人は心がきれいだ。反権力は人間性に通じる、という具合だ。
現実は、そのどれにもあてはまる人とあてはまらない人がいる、というだけのことだ。
幼児性はオール・オア・ナッシング(すべてか無か)なのである。その中間のあいまいな部分の存在の意義を認めない。あるいは、差別をする人とされる人に分ける。
しかしあらゆる人が、家柄、出身、姻戚(いんせき)関係、財産、能力、学歴、その他の要素をもとに、差別をされる立場とする立場を、時間的に繰り返して生きているのである。
ただこの世ですべての人が、それぞれの立場で必要で大切な存在だということがわかる時にだけ、人間は差別の感情などを超えるのである。
平和は善人の間には生まれない、とあるカトリックの司祭が説教の時に語った。しかし悪人の間には平和が可能だという。
それは人間が自分の中に十分に悪の部分を認識した時だけ、謙虚にもなり、相手の心も読め、用心をし、簡単には怒らずとがめず、結果として辛うじて平和が保たれる、という図式になるからだろう。
つまり、そのような不純さの中で、初めて人間は幼児ではなく、真の大人になるのだが、日本人はそういう教育を全く行ってこなかったのである。
※本稿は、『幸福は絶望とともにある。』(ポプラ社)の一部を再編集したものです。
『幸福は絶望とともにある。』(著:曽野綾子/ポプラ社)
自身の経験にもとづく問題提起を行ってきた著者が、閉塞状況の日本に一石を投じるエッセイ。1997年から2000年に毎日新聞、産経新聞などに掲載したものをまとめて単行本化した書籍の改装版。