「あそこのどこかに僕も立てるかもしれない、と。それで円を受けたんです」(撮影:岡本隆史)
演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続けるスターたち。その人生に訪れた「3つの転機」とは――。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が訊く。第14回は俳優の渡辺謙さん。中・高時代は吹奏楽をやっていて、俳優になりたいとは思っていなかったと語る渡辺さん。演劇集団円の山﨑努さん、橋爪功さんなど、あたたかく見守ってくれる先輩たちに恵まれ導かれてきたと当時を振り返ります。(撮影:岡本隆史)

演劇との接点はなかった

今や国際的な大スターとして隠れもない存在の渡辺謙さん。私は1982年に演劇集団円公演の『プラトーノフ』で、岸田今日子さんと共演した新人が、骨があって甘くない、これまでにないタイプの二枚目という強烈な印象を受けていて、それが渡辺謙さんだった。

それにしても、雪国新潟で生まれ育った謙さんが78年に上京後、芥川比呂志演出の『夜叉ヶ池』(円)を観て感銘を受け、翌年に円の研究生となるのだから、これが第一の転機となるのだろうか。

――いや、まだですね。僕の少年時代、50年前とかって、地方にはたまに劇団が回ってくるくらいで、演劇との接点はなかった。

それより中・高時代はずっと吹奏楽をやっていたので、ステージの上で何かを表現した時の、自分の中のアドレナリン、高揚感というか、それを欲してたんだと思います。しかし俳優になりたいという感覚は全然なかったですね。

それでも高校卒業後に、小さな演劇研究所に入るために上京してきて、半年ちょっといたのですが、どうもここは合わないなと思い始めた時に、「今観るべき舞台は何ですかね」って先輩に訊いたら、「桟敷(「天井桟敷」)とテント(「紅テント」)だろう」って。それで桟敷とかテントを観たけど、僕にはハードルが高すぎて全然わかんない。

ところが「今、円がやってる『夜叉ヶ池』もいいよ」って言われて『夜叉ヶ池』を観た時に、すごくその中にスポッと何か、はまる感じがしたんですよ。あそこのどこかに僕も立てるかもしれない、と。それで円を受けたんです。

第一の転機は、研究生になったばかりなのに、オーディション受けて主役の青年に選ばれた『下谷万年町物語(したやまんねんちょうものがたり)』だと思いますね。