筆者の関容子さん(右)と

花柳界のある神楽坂で生まれ育った少年は、どのあたりで俳優になる決心をするのだろうか。

――いつ頃かというメリハリのある話があればいいんだけど、まぁ言ってみれば「未必の故意」なんですよ。

小学校の友だちのお母さんたちとか近所の商店のおばさんたちとかから、「浩ちゃんはいいわよね、役者さんになればいいんだから」と言われて、絶対なるもんか、って思ってましたけどね。

三國は子どもと一緒にいるのが得手なタイプじゃなかったので、遊んでもらった記憶は一切ないですが、小学校3年か4年の時、珍しく運動会に来たことがあって、保護者が大騒ぎになった。でもそれからじきに父は家を出て行きました。

それでしばらく経って、僕が19の夏休みだったかな。当時映像の専門学校へ通ってたんですが、編集でコマ数刻んだり、こんなのつまんねぇ、と思い始めていたんです。

そんな時にNHKのドラマ『続・続事件月の景色』のオーディションの話があってね。こっちは何の芝居経験もないのに、三國の息子だから向こうも青田買いのつもりか、受かっちゃったわけですよ。それが映像との最初の出会いでした。