歌六さんはその杉の子会で、『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』「引窓」の南与兵衛、『近江源氏先陣館』「盛綱陣屋」の盛綱、『嫗山姥』の八重桐、『伊勢音頭』の貢(みつぎ)をつとめた。そしてのちに歌六襲名の演目となる『一條大蔵譚(いちじょうおおくらものがたり)』もここで勉強した。
――ああ、僕が30歳の時かな。襲名には大蔵(卿)をさせていただきたい、って言って、また徹底的に勘三郎の大叔父に習いました。バカだのなんだのって言われながら、あんまりできないと、「もう勝手にやってろ」って出て行っちゃう。
「お前が一人前になってくんねえと、(三代目)時蔵の兄貴と、お前の親父に顔向けができねえんだよ。うまくならねえなら死んでおくれ」って、よく言ってました。(笑)
あの襲名はすごかったですよ。綺羅星のごとく名優揃いの配役で、常盤御前が中村歌右衛門のおじさん、勘解由(かげゆ)に勘三郎の大叔父が出てくれて、鬼次郎夫婦に松嶋屋(十三代目片岡仁左衛門)のおじさんと先代の中村芝翫兄さん、鳴瀬が片岡我童さんでしたから。
もうこれで僕は絶対に廃業できないし、石にかじりついてでも皆様に顔向けができる役者にならなきゃ、と思った。ですからこの襲名が第1の転機ですね。
昭和56年6月、歌六襲名の初日を私は見ているが、勘解由が手負いになって舞台上手寄り、お客に背を向けてどっかと座り込みながら、屋体上の大蔵卿に向かって大声で指図する声がこっちに届くのがおかしかった。
――そうですよ。「そこ違うよ、駄目だよ、お前」ってずっと怒鳴ってる(笑)。あんまり怒ったせいか、途中から病気休演になって。そうしたら今度は歌右衛門のおじさまが、「次は私の責任だから、ちょこちょこと申しますよ」って、またそこでいろいろご教示いただいて、本当にありがたかったですね。