「経営のために帰国したわけですから、僕はいきなり社長になりました。スタッフにしてみれば、日産にある日カルロス・ゴーンがきたようなもの。」(撮影:本社・中島正晶)
俳優、司会者として活躍した柳生博さんが、2022年4月16日、老衰のため亡くなりました。享年85。柳生さんが八ヶ岳の雑木林に開いたレストラン兼ギャラリー「八ヶ岳倶楽部」では、22年7月30日と31日にお別れの会が開催されることに。そこで今回、7年前から倶楽部の代表を務める次男の柳生宗助さんが、ありし日の父を語った記事を前後編にわたって配信いたします(構成=山田真理 撮影=本社・中島正晶)

<前編よりつづく

「八ヶ岳に戻ってくれ」と兄に頼まれて

僕は大学卒業後、サラリーマンになりました。倶楽部は兄が継ぐことはわかっていましたし、最初に商社、その後に外資系の香料会社を勤め先に選んだのは、子どもっぽいと言われるかもしれませんが、「柳生博の息子」という目で見られることのない海外で暮らしたかったからです。

2社目ではタイに2年、シンガポールに2年赴任。特にシンガポールはアジアの拠点でしたので、30ヵ国以上の多様なバックボーンを持つ同僚たちと仕事ができるのが楽しくて。充実した毎日を過ごしていました。

兄は園芸生産農家で働いたあと、「子どもは八ヶ岳で育てたい」と、八ヶ岳へ。両親とともに倶楽部を切り盛りしながら園芸番組の司会も務め、園芸家・作庭家として活躍していました。

そんな兄から「お前のところへ遊びに行くから、一緒にカンボジアへ旅行しないか」と連絡があったのは2014年2月のことでした。連絡をもらったとき、僕はすごく悪い予感がした。というのも、その4年前に兄は喉頭がんを患っていて、治癒はしていたのですが、若年性のがんは再発しやすいとも聞いていましたから。

予感は的中。1週間の旅の間に、兄から「八ヶ岳に戻ってきてくれないか。俺が外の野良仕事をするから、お前には経営を手伝ってほしい」と頭を下げられたんです。

僕は当時42歳。会社員として脂が乗ってきたところで、子どもたちもまだ小さい。安定した仕事をやめるなんて、容易に決断できませんでした。

1ヵ月は悩みに悩みましたが、兄の体を心配した母まで調子を崩してしまい、倶楽部が閉まるようなことになれば、それも嫌だと思いました。退職を決めたのはその年の12月です。