イタリアでの撮影に谷充代さんが同行したときの1枚。高倉健さんは海外を気ままに旅することが好きだった(撮影:通訳のパスカルさん)
昭和、平成をトップスターとして駆け抜け、2014年、83歳でその生涯を閉じた高倉健さん。もっとも信頼を得た編集者が、生前の交流やその教えを振り返る。(構成=丸山あかね)

「また、いつかどこかで」。健さんは天空へ駆け登った

福岡県中間(なかま)市の小松山正覚寺(しょうがくじ)に立つ健さんの記念碑には、自筆で書かれた「寒青」という文字が彫られています。厳しい寒さのなか、草木は枯れ果てても青々としている松のようにありたい。そうした想いから、健さんが腕時計の裏に刻んでいた言葉です。

どんな時も人を喜ばせたいと精一杯に生きた人でした。だからこそ、永遠の大スターとなりえたのでしょう。男の中の男、高倉健は不死身だと、近しい人でさえ錯覚してしまいがちでしたが、ご本人は死に対する覚悟を備えておられました。

30年ほど前、パリから日本に帰る飛行機の中でのこと。「いつか健さんのことを書かせていただきたい」とお伝えしたら、穏やかな表情を浮かべて頷いたあと、「時が来るのを待つのだよ」と。つまり私は「発表するのは自分が死んだ後だよ」と解釈したのです。驚いた私は「そんな日は来てほしくない」とお伝えしたかったのですが、孤高で気高い健さんの美学を垣間見た気がして、まっすぐに受け止めようと思い直しました。

「高倉健の身終い」(谷 充代:著/角川新書)

約束通り、私は健さんの死後、書き溜めていた原稿をもとに、『「高倉健」という生き方』という本を上梓。ほどなくして本を読んだご高齢の女性から、「あなたには健さんのことを書き続ける責任があります」というお手紙を頂戴し、胸を打たれて認めたのが新著『高倉健の身終(みじま)い』です。

健さんがお亡くなりになったのは、2014年の11月10日。83歳でした。悪性リンパ腫という病名も、入院していることさえも、周囲の誰にも知らせていなかったと聞いています。

もちろん私も知りませんでした。訃報に触れたのは18日の昼下がり。ふと携帯電話を見たら、大勢の知人から「高倉さんが亡くなったのですね」という内容のメールが……。まさか! と思いました。遺作『あなたへ』の撮影に臨んだ健さんの歩き方がフラフラしていて心配したという現場の声を耳にしていたのですが、次作の撮影に向けて体調を整えておられるものと信じていました。

でも悲しみはなく、健さんが嬉しそうな顔をして天空へと駆け登る姿が見えたようで「ああ、よかった」と思ったのです。それは、30年にわたる取材を通して健さんの死生観を知っていたからでしょう。

熊本城の夜桜の話をしていた時に聞いた言葉が忘れられません。「桜は命を懸けて咲く花だから、人は集い、酒を酌み交わす。人の命も実に儚いもの……。花の下に佇むことにも限りがあるんだな……」。

健さんは死を直視し、今を懸命に生きるためのモチベーションにつなげていたのです。私には、健さんは少しも悔いを残していない、という確信がありました。

「また、いつかどこかで」という静かな声を聞いた気がして、心の中で「ありがとうございました。素晴らしい生き方を見せていただきました」とお伝えしたことを覚えています。