新宿区「高田馬場」にある「戸塚」第二小学校の門柱に掲げられている「諏訪町」。(写真提供:二見書房)
「現在では使われなくなった地名=『旧町名』は、古い家屋の表札やビルなど様々なものの中に発見することができる」と語るのは、16年以上、全国の旧町名の名残りを探し、その記録をブログなどで発信している102so(じゅうにそう)さん。ご著書の『旧町名さがしてみました in東京』より、今回は東京・新宿区の旧町名にまつわるエピソードを紹介していただきました。102soさんは、「旧淀橋區の十二社・角筈・柏木・淀橋は旧町名四天王」と言っていて――。

十二社、淀橋

<十二社>

こんにちは。西新宿4丁目から来た十二社(じゅうにそう)です。

由来は熊野十二所権現。熊野神社のHP アドレスは「12so」。著者は数字が分かれた「102so」。(写真提供:二見書房)

読みにくい町名として昭和39年8月3日発行の新宿区広報で槍玉に挙げられた者です。

確かに「社」を「そう」って読めませんよね。

町名をわかりやすくという住居表示実施の目的どおり、昭和45年に私は消滅しましたが、割と遅めの消滅だったおかげでいまも古い建物に名前が残っていたりします。

ただ、隣の淀橋さんがエグい再開発中なのでいつまであるかわかりません。

私の生涯を振り返ると、熊野神社の庭みたいな奴だったなぁと思います。

江戸中期の景勝地から始まり明治期の行楽地に大正期の花柳界と、時代と共に役割を変えつづけました。

昭和10年代の最盛期には料亭と待合が100軒に芸者300人の規模だったんですよ。

これもすべて滝と池のおかげです。

特に池は道路開通や宅地化等の時代の変化と共に徐々に埋め立てられて完全に私の生涯そのものですね。

熊野神社境内にある1/144スケールの十二社滝&池。2 つに分かれた池が特にそれっぽい。(写真提供:二見書房)

ありがとう滝と池。そして、いま境内で彼らを再現している熊野神社に感謝です。

<淀橋>

淀橋(よどばし)區、淀橋浄水場、そしてヨドバシカメラ。そのすべての元ネタがこの淀橋です。

バブルの地上げ攻勢とその後の崩壊で再開発が止まり10数年放置。それゆえ残っていた貴重な琺瑯看板。(写真提供:二見書房)

由来は中野区との間を流れる神田川に架かる淀橋という橋名です。

橋としての淀橋は、明治3年に発生した小金井方面からの一揆では農民を止めた防衛線だったほど重要な役割を果たしましたが、地名としての淀橋は柏木(かしわぎ)村と角筈(つのはず)村の一小字に過ぎません。

その淀橋がなぜか淀橋町という自治体名に採用され、その勢いのまま大東京市35區のひとつ、淀橋區まで上り詰めたのです。

我々は淀橋の更なる成り上がり伝説を期待しましたが、戦後昭和22年に新宿区の誕生で淀橋區が消滅したことを皮切りに、昭和40年に淀橋浄水場が移転、そして昭和45年には新宿区淀橋までも消滅してしまいます。

一方で町名消滅直前の昭和42年に淀橋写真商会という会社が設立されます。のちのヨドバシカメラです。

町名としての淀橋は死にましたがその名前はいまでも生きつづけています。本店がある場所の旧町名は角筈ですが。