60歳を過ぎた木綿子は父の介護と引きこもりの娘の世話に日々追われている。不幸ではないが、いろんなものを諦めてきた人生だった。けれど、ひょんなことから知り合った2歳年下の男と出逢う。二人は互いに惹かれていくが……。遠田潤子さんが描く、静謐で過激な大人の恋愛小説。ぜひお楽しみください。

 霧と別れて家に戻った。その夜、早速麻子に伝えた。
「……そんなの私にできるわけない。人前に出るなんて……」
「あなたは演劇が好きだったでしょ。いつも公園で発声訓練してた。まずは好きなことからはじめてみたら?」
 麻子は返事をしない。
「麻子には長い間、我慢をさせて本当に悪かったと思ってる。だから、これからは好きなことをやってほしい。麻子の好きな人生を生きてほしいの」
 あまりしつこく言っても逆効果だ。これ以上は強引に勧めないほうがいいだろう。
「これ、もらってきたの。興味があったら読んでみて」
 霧からもらったパンフレットと資料をダイニングテーブルの上に置いておいた。 
 翌朝、父の朝食が済んだ頃、麻子が降りてきた。今日はずいぶん顔色がいいように見えた。
「お母さん、今日は仕事は?」
「午後から出社。夕方には帰る。なにか買って来て欲しいものある?」
「ううん。大丈夫」
 洗濯機を回しながら、父と麻子の昼ご飯を作った。今日はヘルパーが来ないのだ。同居の女性が二人もいるとあまり考慮して貰えない。
 小ぶりのおにぎりと味噌汁、ナスの煮浸しにラップをして、冷蔵庫に入れた。
「麻子、悪いけどお祖父ちゃんのお昼ご飯、お願いね」
「……うん」
 嫌みを言われることがわかっているから、浮かない顔だ。