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新型コロナウイルス感染の拡大で、3大会ぶりに野球が復活した東京五輪は延期、高校野球の全国大会も春夏ともに中止。プロ野球は6月に開幕しましたが、観客数はいまのところ5000人までに制限されています。そこで、かつて野球場で起こった3つの「事件」と、それにかかわった3人の選手の人生をプレイバック、「野球の暑い夏」を少しでも感じていただければと思います。(敬称は省略) 

※本記事は『世紀の落球』(澤宮優・著/中公新書ラクレ)の一部を再構成したものです。

【事件1】2008年北京五輪/G.G.佐藤
2度もフライを落とし、「戦犯」と言われて

2008年シーズン前半戦、絶好調だった西武ライオンズのG.G.佐藤は、この年に開催される北京五輪の日本代表に追加招集が決まる。日本チームは監督・星野仙一、コーチ・大野豊、田淵幸一、山本浩二という布陣で悲願の金メダルを目指していた。

8月22日に行われた準決勝韓国戦、慣れないレフトの守備についた佐藤はリードしていた場面でゴロを後逸、さらに、逆転ののちにフライを落とす。この試合に敗れた日本は、翌日の3位決定戦に臨むこととなった。もう出番はないと思っていた佐藤は、翌朝発表されたスターティングメンバーを見て驚く。自分の名前があったからだ。

だが、心身ともに準備不足だった佐藤は、この米国との3位決定戦でも3点リードの場面で平凡なフライを落としてしまう。結果、日本は逆転負け。再び致命的なミスを犯してしまったことで、大きなショックと後悔の念を抱く。

試合後に妻へ送ったメールで、佐藤は「死にたい」と書いている。重い気持ちを引きずって空港に到着すると、皮肉なことに出発時以上のフラッシュを浴びた。そして案の定、翌日からは「A級戦犯」などと書き立てられ、実家の両親のところにまでメディアはやってきた。

帰国後、佐藤は、監督を務めた星野に〈すべては私のせいです。申し訳ありません〉と手紙を書いている。

現在のG.G.佐藤さん

ペナントレース復帰後、左足首痛のため戦列を離れた佐藤は、翌年3月のワールド・ベースボール・クラシックでも代表に呼ばれることはなく、日本代表が世界一に輝いた試合でさえ、「テレビを見る気もしなかった」と言う。「素直に応援できませんでしたから。優勝はうれしい反面、悔しい気持ちもありました」。

オープン戦が始まると、北京五輪で主将を務めたヤクルトの宮本慎也が話しかけてきた。「星野さんからの伝言だけどな。『あのことは気にしなくていいから、自分の野球人生を全うして、野球界に貢献しろ』と言っていたよ」と。佐藤は胸が熱くなった。