(写真提供:Photo AC)
『おそ松くん』『天才バカボン』など、「ギャグ漫画」のジャンルを確立した天才漫画家・赤塚不二夫先生。晩年期の赤塚先生を密着取材していたのは、当時新聞社の編集記者だったジャーナリストの山口孝さんです。山口さんは、先生から直接「評伝」の執筆を勧められ、長い時間をかけ『赤塚不二夫 伝 天才バカボンと三人の母』を書き上げました。「最後の赤塚番」が語った、知られざる「赤塚不二夫伝」を一部ご紹介します。

最初の妻・登茂子との離婚後

糸の切れた凧、自由になった赤塚のハチャメチャな生活は続いていた。

別れてすぐ「名前なんてなんだっていいんだ」と、突然、全雑誌の連載で「山田一郎」と改名する。

仕事は相変わらず忙しかったが、夜も寝ないで、遊んでいた。

翌年3月には『週刊新潮』で美人局スキャンダルが報じられ、やくざから逃げるため約半年、都内に潜伏した。

そんな失敗もなんのその、赤塚の絶頂期は続いた。

11月には、集英社が主催、若手ギャグ漫画家を表彰する『赤塚賞』をスタートさせた。

75年4月から1年間、NHKの、近代の歴史に埋もれた出来事にスポットライトを当てる、硬派の番組『スポットライト』のレギュラー司会者になる。